2018年9月7日金曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月1日(その7)〈1100の証言;千代田区/飯田橋・靖国神社〉 その日〔6日〕の午後になってとうとう〔甥の〕春汀を捜しあてた。飯田橋署に、頭に包帯を巻き、血糊までこびりつかせて留置されていた。彼は〔略。1日〕夕刻になり、血迷った自警団にやられたのだ。(比嘉春潮)

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月1日(その6)〈1100の証言;台東区/谷中〉「〔1日〕夜になると忌まわしい流言蜚語がどこからともなく伝ってきた。「朝鮮人、社会主義者が暴動を起し、井戸へ毒を投入している」 冷静に考えれば、この突発の天災時に朝鮮人、社会主義者が組織的な行動をとれるはずはないのだが、意図的な流言蜚語は、地震と火事で思考力を失った人々には意外に容易に受け入れられ、.....」
からつづく

大正12年(1923)9月1日

〈1100の証言;中央区〉
大矢正夫〔自由民権運動家。京橋で被災し、月島の自宅へ〕
〔1日午後〕5時頃より、大砲に斉(ひと)しき爆音、時を隔て、所を異にして、頻々耳朶を掠め去る。乃ち余は直覚的に、社会主義者のため、乗ぜられたるに非ざるかの感を起したりき。後に至り果して主義者と、不逞鮮人の暴挙を伝聞せり。
(色川大吉編『大矢正夫自叙伝』大和書房、1979年)
〈1100の証言;千代田区/飯田橋・靖国神社〉
比嘉春潮〔沖縄史家、エスペランティスト。当時改造社社員。芝の改造社で被災、自宅近くの原っぱに避難〕
その日〔6日〕の午後になってとうとう〔甥の〕春汀を捜しあてた。飯田橋署に、頭に包帯を巻き、血糊までこびりつかせて留置されていた。彼は〔略。1日〕夕刻になり、血迷った自警団にやられたのだ。最初、向うからドヤドヤとやってきて「朝鮮人だ」と叫んでいるので、とっさにものかげにかくれ、いったんはやり過した。ところが一番後にいた一人が、ひょいとふり返り「ここにいた」というが早いか、こん棒でなぐりかかった。「ぼくは朝鮮人じゃない」と叫んだ時にはもう血だらけになっていたという。
(比嘉春潮『沖縄の歳月 - 自伝的回想から』中央公論社、1969年)
〈1100の証言;千代田区/大手町・丸の内・東京駅・皇居・日比谷公園〉
安倍小治郎〔水産会社経営者。日本橋魚河岸で被災〕
〔1日夜〕皇居前の楠公の傍らに移ったが、ここもいまに朝鮮人が暴動を起して皇居に侵入するから危険だと流言を飛ばすものがある。それかあらぬか時々宮城の二重橋の広場から喚声が聞えて来るので、家族が又どこかに移ろうといい出した。〔大手門へ移動した〕
〔略。2日〕また夜に入ると二重橋方面で喚声が聞こえる。朝鮮人の襲撃だとの流言が飛ぶ。
(安倍小治郎『さかな一代 - 安倍小治郎自伝』魚市場銀鱗会、1969年)
石井光次郎〔政治家。当時『朝日新聞』勤務。宮城前に避難〕
〔1日夜、警視庁から〕帰って来た者の報告では、正力〔松太郎〕君から、「朝鮮人がむほんを起こしているといううわさがあるから、各自、気をつけろということを、君たち記者が回るときに、あっちこっちで触れてくれ」と頼まれたということであった。
そこにちょうど、下村〔海南〕さんが居合わせた。「その話はどこから出たんだ」「警視庁の正カさんがいったのです」「それはおかしい」
下村さんは、そんなことは絶対にあり得ないと断言した。「地震が9月1日に起こるということを、予期していた者は一人もいない。予期していれば、こんなことにはなりはしない。朝鮮人が、9月1日に地震が起こることを予知して、そのときに暴動を起こすことを、たくらむわけがないじゃないか。流言ひ語にきまっている。断じて、そんなことをしゃべってはいかん」 こういって、下村さんは、みんなを制止した。〔略〕だから、他の新聞社の連中は触れて回ったが、朝日新聞の連中は、それをしなかった。
(石井光次郎『回想八十八年』カルチャー出版、1976年)

岩川清
〔1日〕午後2時半頃、〔日比谷から芝区琴平町へ帰宅の途中〕新聞社の自動車からメガホンで、ただいま巣鴨、大塚方面に暴動が起こったので十分気をつけるようにとのことで、人々は不安におののきました。〔略〕夕方より方々に自衛団ができまして、各所に尋問所がもうけられ交通人に尋問する等、都内は大混乱を来たしました。
(「日比谷図書館にいた時」品川区環境開発部防災課『関東大震災体験記集』品川区、1978年)
北園孝吉〔作家、歴史家〕
〔9月1日夜、宮城前広場で〕 そのうちに、どこからか男の声で「みんな、灯りを消せ!朝鮮人が襲ってくるぞ!」と叫んでいた。提灯やローソクをつけていた人たちは、いっせいに消してしまい、息をひそめていた。けれども堀向うの赤い空で群集の姿は闇に消されることもなく、影絵のように、こそこそと動きが見えていた。その30分くらいの経過の後、ポツポツ尋ね人が動き出し、朝鮮人はこっちへ来ないぞと誰かが言い歩いてきた。
〔3日夜〕日比谷公園の西角あたりで「止まれッ」と号令があり、手丸提灯が並んでいた。戒厳令下である。軍人がギラギラする抜刀を私たちの前に突き出し、提灯の明かりで、顔を見る。前方に停められている人たちには、「君が代を唄ってみろ」と怒鳴っている。唄の発音がおかしければ逮捕されるのだろう。私たちの言葉と顔つきが朝鮮人ではないと認められて通行を許された。
(北園孝吉『大正・日本橋本町』青蛙房、1978年)

沢田武彦〔当時23歳〕
〔1日、宮城前広場で〕夜中に4、5人が一列に並び、例の朝鮮人のことを連呼して通り過ぎるのを見、あのような人々が流言を流す人種かと思ったものですが、後日、市内の親戚や知人を訪ねましたところ、日頃尊敬する知識人や、年配で道理の分かった人々まで、一様にこの流言に震え上がっていました。
(「大地震から二十四時間」関東大震災を記録する会編、清水幾太郎監修『手記・関東大震災』新評論、1975年)

寺田壽榮子〔当時成蹊小学校4年生〕
私は日比谷へにげた時、朝鮮人が2千人ばかり来るから、皆さんてんでんにお気をつけなさいと、へんな方が大声でおっしゃったので、私はおどろきました。お家のいとこがそんなら女の人はくさの中にしゃがんでいらっしゃいといったので、皆草の中へしゃがんでいました。〔略〕晩の8時頃だったので、ちょうちんをつけといたのを皆けさなければいけないと、又大きな声でいったので、日比谷中まっくらになってしまいました。なんだかうしろにいるような気特がしてこまりました。お兄様たちが、日本人と同じふうをしてきて、すぐ前にきてふところからでもきれものをだされて、殺されるかもしれないと私たちをおどかしになりました。私はこわくて、こわくて泣きたくなってしまいました。〔略〕私は9月1日の晩はわすれられません。
(成蹊小学校編『大震大火おもひでの記』成蹊小学校、1924年)

中村翫右衛門〔歌舞伎俳優〕
〔1日夜、日比谷公園で〕 しいんとしている空気を破って、ガチャッ! ガチャッ! と音がして、靴音とともに、兵隊が剣つき鉄砲を持ってまわってくるのだ。しばらく静かになると、突如、バタバタと足音がしたかと思うと、「そっちへ逃げたぞ、鮮人はそっちだぞ! 逃がすな!」
帯剣のぶつかりあう音、靴音の乱れる音。それが静寂を破って、なんともいえない無気味な雰囲気が漂うのだ。
私は、なにがなんだかわからなかった。いったい、何を追いかけ、なにが逃げてるか、見当がつかない。警備の兵隊が、どなってくる。「いま、不逞鮮人が暴動を起し、井戸に毒を入れ、公園内に逃げこんだ、注意されたし」というのだ。それでもなんだかわからない。なぜそんなことをするのか見当がつかないのだが、なにしろ、不安はますますつのるばかりなのだ。
「ここは危ない、すぐだから丸の内の電信隊のところへ逃げよう」という岩沼〔亮三〕氏の提案で、日比谷を抜け出て、電信隊がいるところへのがれた。岩沼氏は、ブルジョア社会の顔ききなので、とがめられてもすぐ通過するのだった。
自動車から降りて、私たちは草の上にすわった。そこには天幕を張って電信隊の兵士たちがたむろしていた。その前に、2、3人縛られた男の姿があった。「言わんか・・・」と兵隊がどなっている意味は、そうだろうと察しろが、ガウンか!ときこえて、ただどなりつけ、おどかしているとしか感じられないのだ。
つかまっている人たちは、舌がもつれ加減の日本語だが、朝鮮人とも見えるし、日本人がオドオドして舌がもつれているとも見えるのだった。ひっきりなしに、おどかし、追求するので、私もなにか気持がわるくなってきた。ここもただなんとなく不安に感じてきた。
「丸の内の宮城のほうはどうでしょう・・・」と私は言った。みんなも気味がわるくなっていたとみえて、宮城のほうへ行くことに賛成した。3度、私たちは移動して、堀端に近い宮城の広場の一隅にすわった。
(中村翫右衛門『人生の半分 - 中村翫右衛門自伝』筑摩書房、1959年)

村田きみ〔当時尋常小学校2年生。神田で被災、二重橋前へ避難〕
〔1日夜〕「あかりを消せぇー」「朝鮮人が来るぞう」という声、それが波のように何度もきこえてくる。母の膝に顔をうずめて聞いたあの夜の声は、50年経った今も耳の底に残っている。
(村田きみ『私の人生街道』ふだん記全国グループ、1974年)

つづく



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