2018年9月6日木曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月1日(その6)〈1100の証言;台東区/谷中〉「〔1日〕夜になると忌まわしい流言蜚語がどこからともなく伝ってきた。「朝鮮人、社会主義者が暴動を起し、井戸へ毒を投入している」 冷静に考えれば、この突発の天災時に朝鮮人、社会主義者が組織的な行動をとれるはずはないのだが、意図的な流言蜚語は、地震と火事で思考力を失った人々には意外に容易に受け入れられ、.....」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月1日(その5)「多数の朝鮮人が殺傷されたことは事実ですし、トビロで脳天を割られたものがあったこともたしかな事実でした。検問所の尋問に引っかかった日本人も、靴りがひどかったり、雰囲気にけ押されてはきはき返事をしなかった者などが、みな被害を受けました。」(大河内一男『暗い谷間の自伝 - 追憶と意見』)
からつづく

大正12年(1923)9月1日

〈1100の証言;台東区/上野周辺〉
勝山佐吉〔神田錦町9で被災〕
〔1日〕午後1時頃になると、四方火の海、〔西郷〕銅像下は人でぎっしり、歩く余裕はない。その頃からデマが飛び始めた。当時の言葉で外国人が爆弾を仕掛けたためだと、もっぱらのデマ宣伝。さあ避難民はいよいよ恐々としてきた。今夜あたりは上野駅にも爆弾を仕掛けるらしいなどのデマ。
今のうちに逃げようという声が多い。喉がかわき、空腹を我慢して谷中の墓地深く避難した。ところが墓石に白墨で×△○といろいろな印がある。これは外国人の爆弾の印だ、それっ、もっと先へ逃げろということになり、ついに小石川の文化女学院まで逃げ、ここで夜を明かした。夜警の人たちにより握りめしにありついた。幸いこのあたりは災害が少なかった。
(「神保町の大火から逃れて」品川区環境開発部防災課編『大地震に生きる - 関東大震災体験記録集』品川区、1978年)
中川清之〔下谷区御徒町1-2で被災〕
〔1日〕間もなく今度は一目でそれと知れる焼け出された人達が上野へ向かって避難してきた。ほとんど着の身着のまま、裾もはだけ僅かな荷物しか持っていない。その人達の話を聞くと、神田方面の火はもう手の付けようもなく、しかも朝鮮人の焼き討ちによるものだという話であった。〔略〕二長町にある郵便馬車の溜りでは、50頭近い馬を上野動物園に避難させているという話を聞いた。朝鮮人が暴動を起して爆弾を投げたり、井戸に毒を入れて回っているという噂もどこからか耳に入った。
(『東京に生きる 第10回』東京都社会福祉総合センター、1994年)

長沢豊〔当時府立第三中学校生徒。下谷東黒門町1で被災〕
〔1日〕上野の山へ避難しようとしたのは午後6時近くであった。この時分既に、大災害につきものの恐慌が起り、流言蜚語が飛び交った。曰く、井戸に×印のあるのは不逞鮮人が井戸水に毒を入れてあるから飲んではいけない、曰く、塀や戸口に○印が書かれた家は焼打ちの目標だから警戒を厳重にせよとかである。こういうパニックが起ると大変なものだ。
〔略〕蚊に悩まされ、流言による毒物混入の井戸水使用禁止による口渇、果ては不逞鮮人の襲撃というデマに悩まされた一夜が明けて、避難場所から西郷さんの銅像のある高台に上がって、見はるかした下町の全貌は惨憺たるものであった。
〔略〕第二日は本郷の切通しで不逞鮮人が武装をして上野へ向っているというデマで谷中初音町の知人宅へ。そこで作ってくれた握り飯のうまかったこと。更にその夜は本郷肴町に近い理研のある三菱ヶ原で野宿。騎兵小隊が過ぎて行くのに闇の群集から「兵隊さん頼みますよ」の声が掛かったのを覚えている。
(『関東大震災記 - 東京府立第三中学校第24回卒業生の思い出』府立三中「虹会」、1993年) 
〈1100の証言;台東区/谷中〉
伊福部敬子〔評論家〕
〔1日夜、谷中で〕拍子木を持ち、鉢巻だけが夜目に白い屈強な男たちが、恐怖と混乱の底に足音を高くして轟け(ママ)とおると、犬が吠えたてた。「男の人は、皆自警団に出て下さーい」と、怒鳴る声がきこえた。〔略〕大塚まで火が来たそうだ、三河島では暴動が起ったそうだ、この虚に乗じて日本を皆殺しにしようと井戸には毒を投げこんで歩くスパイがいるそうだ。次々と不安な流言が暗夜の心を恟々させた。
夜気の中に、いがらっぽいものが流れると、咳がたてつづけに出た。赤ん坊は呼吸が困難で妙な泣声をあげた。
毒瓦斯ではないか、と囁きあう中で、どどうん、と大砲の遠饗のようなものがきこえた。火薬庫に爆弾を投入したものがある。それから10分もたつと、そんな流言が伝ってて来た。
〔略。2日〕夜になると、近所にいる彼〔夫の伊福部隆輝〕と同じ文筆の仕事をしている人の中でも親しい友人が、3人5人と警察に検束されたことがわかった。朝鮮人暴動の流説が人々をおびえさせ、一方には社会主義者の反乱が誤りつたえられ、無警察状態となった巷では、喧嘩や私闘や暴行があり、日頃町の人々とあまり親密にしていないものは、社会主義の名で暴行せられるかもしれない、というので、傾向をもった文筆業者は悉く保護のために検束したらしいのである。けれども、そんな理由が判明したのは後のことである。〔略〕彼は、私を物陰によんで、「逃げるんだ、明日、いいね」といった。迫った口調だった。
〔略〕私たちが逃げ出したのは3日目の朝だった。〔略。浮間ケ原の舟橋で〕両岸には、剣つき銃の兵士が橋際に4人ずついて、6人以上一度に渡ろうとするのを剣のカにかけて制止していた。
〔略。3日夜、川口で〕私たちは、ここで全く見知らぬ人の救いを得なかったら、その夜の自警団の竹槍にかかっていたかもしれない。私たちは、壊れて雨も星も洩る小屋の中で、怪しい奴が出たといって乱打する半鐘の音を、競々としてきいた。松明が雨間の中をとびかい、鬨の声が森にこだまして、魂をひやさせた。
(伊福部敬子『母なれば』教材社、1941年) 
沢田釭造〔江戸庶民史研究家。谷中で被災〕
〔1日〕夜になると忌まわしい流言蜚語がどこからともなく伝ってきた。「朝鮮人、社会主義者が暴動を起し、井戸へ毒を投入している」
冷静に考えれば、この突発の天災時に朝鮮人、社会主義者が組織的な行動をとれるはずはないのだが、意図的な流言蜚語は、地震と火事で思考力を失った人々には意外に容易に受け入れられ、私らも近所の人々と自警団を自主的につくって、各自武器を携行して警備に当った。私も道中脇差をもって、これに加わり、私らは裏の谷中墓地にはいって、墓地の中の通路を警戒した。2日には少し雨が降り、墓地のあちこちに蛍火のように燐が燃えていた。私は脇差を抜いて、木の枝をはらって快を楽しんだ。
警戒中に通路の向うから白衣の人影が見えた。近づくのを待って、私らは緊張して誰何した。その人は一人で、長い竹杖をもっていた。私らの真剣をつきつけての誰何に動転して「平櫛だ、平櫛だ」と言った。他の人は不審をはらさなかったが、私は、すぐ彫刻家の平櫛田中氏とわかったので、これを明らかにして、他の人の疑惑を解いた。
(沢田釭造著・馬場永子編『おいたち・他』私家版、1999年)

勇樹有三〔当時尋常小学校2年生。谷中で被災〕
〔1日夕〕”宮城の近くに反乱が起きた””井戸に毒を投げ込む人間がいる””何々団が手当り次第に火を放っている”等とおだやかでない流言が飛び交い〔略〕都心をはなれた周辺の人々は本能的に自警団を組織して、生命の綱とも頼む井戸を、目に見えぬ敵の手から護ろうとして起ち上がった。
(勇樹有三『勇樹有三随筆集 あじさい』私家版、1974年)

続く



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