2018年9月9日日曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月1日(その9)〈1100の証言;文京区/小石川〉「下町の火事の火が消え、どの家にも手持ちの蝋燭がなくなり、夜が文字通りの闇の世界になると、その間に脅えた人達は、恐ろしいデマゴーグの俘虜になり、まさに暗闇の鉄砲、向う見ずな行動に出る。〔略〕関東大震災の時に起こった、朝鮮人虐殺事件は、この闇に脅えた人間を巧みに利用したデマゴーグの仕業である。私は、髭を生やした男が、あっちだ、いやこっちだと指差して走る後を、大人の集団が血相を変えて、雪崩のように右往左往するのをこの目で見た。」(黒澤明)

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月1日(その8)〈1100の証言;豊島区〉「小島屋〔下宿先〕の家主の引率する自警団も、17名殺ったが、そのうち3名は普段左翼がかったことを言っている地区内の住民で、主義者だから混ぜて殺ってしまえということになった。あとで小島屋の家主からふるまえ酒が出されて、みんな知らんと言うことにしよう、どうだ・・・。これで全員が了承して、誰も以後こんな話をしないことにした。」
からつづく

大正12年(1923)9月1日

〈1100の証言;中野区〉
細井稔
〔1日、上高田で〕ところが夕刻すぎると、大変物凄なニュースが入って来た。一つは、朝鮮人が暴動を起こしたらしい。井戸には毒薬を投げ入れられる危険があるので、各井戸は確(しっか)りと蓋をした上で、沢庵石のような重石をのせ、よく注意せよとの指令。二つ目は、豊多摩刑務所から極悪の罪人が多数逃げ出した。近所の民家に押入り、衣類、金銭、食物を強奪する危険があるので、各戸とも戸締りを厳重にし用心すること、との触れが回った。
そうなると、自警団員も、日本刀や、鉄棒、火消しのとび口、手頃な真竹で竹槍を丹念に作り、ゴマ油を竹の先に塗ったり、大変な異様さと殺伐さを減らせて来た。夜に入ると半鐘が乱打され、囚人が刑務所から逃げ出したというので、村中、恐怖に包まれた。そのうち各方面の畑の方で、怪しいものがいるぞと叫声が上がり、あちこち一晩中ざわめき、生きた心地はしなかった。しかし不審な者は殆んどつかまらなかったようだ。
翌日2日は、自警団の所はいっそう物々しくなり、前記のように武器を持った人が増し、上高田へ入る人々は、怪しいと見ると皆引止められ、色々訊問された。日本人らしからぬ者は、知人でもいて証明すればパスできたが、そうでない人達は、「イロハ四十八文字」「おいうえお」をいえるかいえぬかで識別された。いえぬ者は、トコトンしらべられた。
上高田では、朝鮮の人達や、危険視された人々の殺傷は、ほとんど私達は聞いていなかったのでよかったと思う。
(細井稔他編『ふる里上高田の昔語り』いなほ書房、1982年)

堀野良之助〔地域研究家〕
当日の夕方には東の空は入道雲のように一面にもくもくと浮き上がり、何かと思っていると、暗くなるにしたがって赤くなり、夜になると真赤になったので、はじめて火事が各所に起っている事がわかったので騒ぎ出した。
その中にデマが各所から飛び出して、朝鮮人が井戸に毒を入れて歩くから、井戸に蓋をしろとか、朝鮮人が多数組んで押しかけて来るとか、又小松川では朝鮮人が大勢銃殺されたとか、いろいろ次から次へとデマがとんだ。
夜は皆出て夜警をした。昼も夜も休みなく一軒一軒家の周りをまわり、電灯はつかず真暗の中を3、4人続いて回り、鉄棒を持って歩く者や、日本刀を持っている者、皆ものものしい警戒で、うす気味の悪いような、恐しいようであった。
翌日になると焼け出された人が入って来る。その話では、焼跡には死体がゴロゴロしているとか、本所の被服厳は何万人かの焼死人の山になっているとか、重なり合って死んでいるとか、隅田川には死体が浮いて流れているのを引き上げているとか、水脹れになっているとか、噂は噂を生んで大騒ぎ、わずか1里か2里離れている日本橋麹町辺の事実がわからない有様であった。3日目位からは様子が知れて来た。朝鮮人のデマ以外は本当であり、鳶職などは焼跡に人夫として死体の片付けに出て行った。
(堀野良之助『回想』私家版、1961年。中野区中央図書館所蔵)

〈1100の証言;練馬区〉
芹沢西左衛門〔野菜を売りに行った大塚市場から帰る途中で被災〕
〔1日〕途中の様子を見ても家がつぶれたり、火災がおきたところはなかったが、ガラスの割れた家は多かった。また、武蔵大学付近の道路に亀裂ができていた。練馬駅の所の鐘紡のレンガ塀が倒れ、女子工員8人が死んだ。〔略〕夜になると、井戸に毒を入れられるというデマが広まり、どの家でも夜通し井戸を守るのに懸命だった。さらに本所・両国方面の死体処理に出ることを命ぜられた。悪臭の漂う中で多くの死体を処理するのはとてもつらかったので、2、3日で行くのをやめてしまった。その後も井戸を守る夜番などが続き、私も一時健康を害してしまうほどだった。
(練馬区教育委員会編『古老聞書』練馬区教育委員会、1979年)

〈1100の証言;文京区/大塚〉
幸野岩雄〔当時師範学校教諭〕
「帝都から免れ帰った幸野岩雄師範教諭の実見談」
〔1日〕護国寺の前を大塚の仲町へ出たが、ここでは兵器支廠の塀が倒れ兵士は剣を付けて護っている中に多数の避難者を収容していた。漸くにして高等師範学校へ着いたのは午後6時半頃であったが、学校の広大な庭園には既に避難者が満たされていた。その夜半である。1日の真夜中の頃だ。誰言うともなしに火事は不逞鮮人が爆弾を投じ又は火を放つからだ、鮮人には気をつけねばならぬと噂は噂を生んで人心は恟々としていた。
〔略〕翌2日になると朝鮮人の暴行は各方面より伝あり、在郷軍人青年団はみな棍棒を携帯して鵜の目鷹の目で鮮人を探しまわり見付かり次第警察へ突き出している。
〔略〕池袋へ行く途中鮮人が捕まっているのを見た。〔略〕又目白台の付近でも鮮人の警察へ引きずられて行くのを2、3人も見たが、その顔には生血がタラタラ流れていた。
〔略〕2日頃からは一般の人心は寧ろ地震の恐怖よりも不逞鮮人の暴行に対し全く夜も寝むれぬ有様で、恟々とし只その噂にのみ胸を騒がせていた。この夜である。2日の夜の午後8時半頃突然警備中の在郷軍人青年団が「諸君鮮人等は焼け残った小石川方面を襲うべく屡々侵入しつつある。今夜は高等師範及小石川小学校を中心として焼き払えといっているから充分に警戒して下さい」という事であった。
一同は実に意外の警告に呆然としてしまったが、間もなく11時頃と思うが一大強震が来たのと殆ど同時位に18、9の夜警青年は大きな声で「只今鮮人の女が50名程と男も交って春日町の方から高師の庭内に入って来た。彼等の男は印祥纏を着て、山に十の字の付いた提灯又は昔のガンドウ提灯を持っているから大いに警戒して下さい」と振れて回った。と間もなく同心町の魚屋の裏へ今鮮人が放火して焼け出した。その鮮人はつかまったと交々(こもごも)来る警報に、一同はその夜はマンジリともする事が出来なかった。
(『愛媛新聞』1923年9月7日)

〈1100の証言;文京区/小石川〉
黒澤明〔映画監督。当時中学2年生。小石川の大曲付近在住〕
その夜〔1日夜〕人々を脅かしたものは、砲兵工廠の物音である。〔略〕時々、砲弾に引火したのか、凄まじい轟音を発して、火の柱を吹き上げた。その音に人々は脅えたのである。私の家の町内の人々の中には、その昔は伊豆方面の火山の爆発で、それが連続的に火山活動を起しつつ、東京方面に近付いているのだ、とまことしやかに説く人もあった。
〔略〕下町の火事の火が消え、どの家にも手持ちの蝋燭がなくなり、夜が文字通りの闇の世界になると、その間に脅えた人達は、恐ろしいデマゴーグの俘虜になり、まさに暗闇の鉄砲、向う見ずな行動に出る。〔略〕関東大震災の時に起こった、朝鮮人虐殺事件は、この闇に脅えた人間を巧みに利用したデマゴーグの仕業である。私は、髭を生やした男が、あっちだ、いやこっちだと指差して走る後を、大人の集団が血相を変えて、雪崩のように右往左往するのをこの目で見た。
焼け出された親類を捜しに上野へ行った時、父が、ただ長い髭を生やしているからというだけで、朝鮮人だろうと棒を持った人達に取り囲まれた。私はドキドキして一緒だった兄を見た。兄はニヤニヤしている。その時、「馬鹿者ッ!」と、父が大喝一声した。そして、取り巻いた連中は、コソコソ散っていった。
町内の家から一人ずつ、夜番が出ることになったが、兄は鼻の先で笑って、出ようとしない。仕方がないから、私が木刀を持って出ていったら、やっと猫が通れるほどの下水の鉄管の傍へ連れていかれて、立たされた。ここから朝鮮人が忍びこむかも知れない、というのである。
もっと馬鹿馬鹿しい話がある。町内の、ある家の井戸水を飲んではいけないというのだ。何故なら、その井戸の外の塀に、白墨で書いた変な記号があるが、あれは朝鮮人が井戸へ毒を入れた目印だというのである。私はあきれ返った。何をかくそう、その変な記号というのは、私が書いた落書だったからである。
私は、こういう大人達を見て、人間というものについて、首をひねらないわけにはいかなかった。
(黒澤明『蝦蟇の油 - 自伝のようなもの』岩波書店、1984年)

つづく





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