2018年9月8日土曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月1日(その8)〈1100の証言;豊島区〉「小島屋〔下宿先〕の家主の引率する自警団も、17名殺ったが、そのうち3名は普段左翼がかったことを言っている地区内の住民で、主義者だから混ぜて殺ってしまえということになった。あとで小島屋の家主からふるまえ酒が出されて、みんな知らんと言うことにしよう、どうだ・・・。これで全員が了承して、誰も以後こんな話をしないことにした。」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月1日(その7)〈1100の証言;千代田区/飯田橋・靖国神社〉 その日〔6日〕の午後になってとうとう〔甥の〕春汀を捜しあてた。飯田橋署に、頭に包帯を巻き、血糊までこびりつかせて留置されていた。彼は〔略。1日〕夕刻になり、血迷った自警団にやられたのだ。(比嘉春潮)
からつづく

大正12年(1923)9月1日

〈1100の証言;千代田区/神田・秋葉原〉
神田外神田警察署
9月1日、流言蜚語の始めて管内に伝播せらるるや、署員を要所に派遣して警戒に従事すると共に、民衆に対して、軽挙妄動を戒めたり。而して、同日薄暮、自ら本署に来りて保護を求め、或は、署員に依りて検束せる者等を合せて、支那人11名、鮮人4名、内地人5名を収容せり。然れども、流言の宣伝益々急にして遂に、民衆は自衛の為に、戎・兇器を携えて起ちしが、その行動往々にして看過す可からざるものあり。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

〈1100の証言;豊島区〉
M〔当時『東京日日新聞』記者〕
〔1日、下宿先の大塚への途中〕巣鴨監獄の塀が倒れて、丈夫な石塀だから大丈夫と監獄の高い石塀の下に避難をした付近住民がたくさん死んだ。こんな話を聞いたあとですぐ、朝鮮人がムホンを起した。司法省行政課長、山岡万之助が2千人の囚人を解き放したとはあとで聞いたが、その時点では、朝鮮人と刑務所囚人との暴動が起ったの伝聞ばかしであった。
下宿は無事で、その夜から自警団が作られて、日本刀を腰に、竹ヤリを一本ずつ配られて、町内の血気な男子は、それぞれ囲碁友だちとか、つり仲間とか、話の合う連中で組を作って、家主の家を溜り場にして動き回った。情報は、警察官と在郷軍人が持ち込んできて、「井戸の水を呑むな」が始まりであった。夜は自警団で日中は災害地歩きという毎日で、死人を見るのは馴れっこになってしまった。
〔略。大塚の空蝉橋では〕夜になると朝鮮人が口笛で合図をしあって神社〔大塚天租神社〕の縁の下にかくれていると言う密告に、憲兵が出てきて縁の下の人間を発砲して殺したが1人であった。こうしたことに刺激されて、小島屋〔下宿先〕の家主の引率する自警団も、17名殺ったが、そのうち3名は普段左翼がかったことを言っている地区内の住民で、主義者だから混ぜて殺ってしまえということになった。あとで小島屋の家主からふるまえ酒が出されて、みんな知らんと言うことにしよう、どうだ・・・。これで全員が了承して、誰も以後こんな話をしないことにした。今とはまったく違った時代だよ。ほとんどの人が朝鮮人殺しは知っていたが、記事としての興味がなくて扱われなかった。今、こんな問題をほじくり出して取り上げることは、世の流れとしか思えない。
(三原令『聞き書き』→在日韓人歴史資料館所蔵)

小生夢坊〔社会評論家。池袋で被災〕
〔1日〕余震が続くし、朝鮮人が暴行するという噂が流れて、特高が、外出しない方がいい、ことに下町一帯は危険だと注意する。私は長髪だったし、おまけに細い銀のタガをはめていた異相は、朝鮮人に間違えられるかもしれないとおもった。
そこで、その日は、家の整理をして出かけなかったが、この辺でも、自警団が竹槍やら猟銃やらを片手にうろうろしていた。
(「関東大震災恐怖記」『文化評論』新日本出版社、1977年9月)

田辺尚雄〔音楽学者〕
〔目白の自宅へ帰った1日夜〕その頃警察から通知が来た。「朝鮮人や不良徒が各戸の井戸に毒を入れて歩くから要心して井戸を護れ」とのことである。私は止むを得ず、その頃から折柄手伝いに来ていた吉田義雄と交代で、宅の井戸を警護することにした。私は日本刀を腰にさし、軽装で井戸の側に立つ。吉田氏は竹槍を持って、私と交代して井戸を護った。
ところが翌日になると、巡査が自転車に乗って街中を触れ歩いた。「朝鮮人が焼けていない家に一いち火をつけて歩くから注意せよ」というのである。そのために善良な在日朝鮮人が多数惨殺された。
〔略〕隣組の方から伝令が来て、「今、奥の長崎村の方から60人ばかりの朝鮮人が襲撃して来るから要心せよ」という。私はそんな馬鹿なことがあるものかと平気でいると、30分ばかりして再び伝令が来て、「先程のことは誤りで、実は一人の60歳ぐらいの朝鮮人らしい男がうろついているから気をつけよ、ということの誤りだ」というのである。人心の混乱というものは不思議なものである。そればかりでなく、一部の人の噂では「今3千人の朝鮮の部隊が箱根山を越えて小田原に侵入し、日本の陸軍と交戦中である」というのである。何という馬鹿なことを信じる人間があるものだろうか。
(田辺尚雄『田辺尚雄自叙伝(続大正・昭和編)』邦楽社、1982年)

巣鴨警察署
9月1日「鮮人は東京市の全滅を期して爆弾を投ぜるのみならず、更に毒薬を使用して殺害を企つ」との風説始めて伝わりしが、民心これが為に動揺して遂に自警団の勃興となり、鮮人に対する迫害頻りに起る。
かくて翌2日に至りては、放火の現行犯なりとて鮮人を同行するものあり、毒薬を井戸に投じたる者なりとて逮捕する者あり、或は鮮人と誤認せられて迫害を受け、又は本署に同行せらるるものあり、更に「社会主義者が帝都の混乱に乗じ、電車の車庫を焼毀せんとするの計画あり」との報告にさえ接しければ、本署は非番員の全部を6小隊に分ち、巣鴨・西巣鴨・高田の各町役場、池袋警備派出所・高田水久保三榮活動写真館その他一箇所に配置して警戒の任に当らしめ、かつ高等係に命じて社会主義者及要注意鮮人を監視せり。
而して自警団の暴行は漸く甚しく、同3日良民にして重・軽傷を負えるもの8名を出し、或は公務の執行を妨害し、或は商店に赴きて暴行するもの等少なからず、これに於て陸軍当局の提議に従い、軍隊・警察互に協力して管内の警戒に当りしが、同4日以来更に要視察人の取締を厳にし、流言を放てるものを検挙すると共に、同5日には管内の要所に検問所を開き、かつ自警団の設立はあらかじめ警察の許可を受くる事となし、又その戎・兇器の携帯を厳禁せり。
しかれども自警団の多くはなお態度を改めず、制服の警官・軍人を誰何するの狂態なりしかば、巡察隊を1組10名ないし20名に増員して取締を励行せしが、その功少なきて以て、更に大部隊の巡察隊を編成してこれを鎮圧せんとし、福島県応援警察官40名と本署予備員とを合してこれを2隊と為し、管内警戒の任に就かしめたり。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

『豊島区史』
豊島区地域でも、朝鮮人に関するデマの流布は例外ではなく、巣鴨署管内で45(1組員数25〜500人、10月20日調)の自警団が組織されている。巣鴨署の場合は東京府下で朝鮮人に関する流言が発生した最も早い(1日)場所の一つなのである。そして少なくとも巣鴨および池袋で各1名ずつが殺されたという資料が残っている(二つの異なる調査で各1名ずつ)。巣鴨警察署も「自警団の暴行は漸く甚しく、同3日良民にして重・軽傷を負えるもの8名を出し(『大正大震火災誌』)と暴行の事実は認めており、豊島区地域にいた多くの朝鮮人を生命の危機が襲ったことは疑いなかろう。
(『豊島区史・通史編2』豊島区、1983年)

つづく



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