2018年9月2日日曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月1日(その2)〈1100の証言;墨田区/雨宮ヶ原付近〔現・立花5丁目〕〉「.....2人か3人殺されるのを見ました。蓮田で殺された1人は女の人で、この人をつかまえてきて殺すのを見ました。手をすって謝っているけど、皆いきりたってるからやっちゃうんだね。.....」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月1日(その1)〈1100の証言;新宿区/牛込・市ヶ谷・神楽坂・四谷〉「閉じこもっているあいだ、近所の15歳ぐらいの男が「今日私も朝鮮人を2人やっちやった」と、われわれの前ですらすらっと。.....妊婦の腹を裂いて腹の中の胎児まで、それを自分でどうしたとかそういうことも言うじゃないですか。」
から続く

大正12年(1923)9月1日
〈1100の証言;墨田区/吾嬬・小村井〉

内田〔仮名〕
1日の夕方、5時か6時ころその原っぱ〔現・東あずま公園〕に通っている東武線の踏切のところに憲兵隊が3人くらいやって来た。憲兵隊は蓮田のなかにピストルをドカンドカンと撃ちこんで「朝鮮人が井戸のなかに薬物を投げた。かようなる朝鮮人は見たらば殺せ」と避難民に命令しました。
〔略〕一般の我々が煽動したのではなく、煽動したのは憲兵隊です。これは私がはっきりこの目で見て知ってます。それでみんながいきりたって朝鮮の方がたを田んぼのあぜ道で……。本当にもう見ていられませんでした。朝鮮の方がたは田んぼの中の水のなかにもぐって竹の筒を口にくわえて上へ空気を吸いながら隠れていました。それも見つけだして、もうなんと言うか…‥。あぜ道に死体がずらっと並べられているのを見ました。殺された朝鮮人は普段からよく顔を合わせていたので知っていました。また朝鮮人は服がちがうからすぐわかりました。

〔略〕自警団はすぐに、1日か2日のうちにできました。自警団を組織しろと命令したのも憲兵です。憲兵は、軍がのちにどうのこうのと言われないように、ことがすんだら、2、3日のうちにばあっと消えてなくなりました。在郷軍人が憲兵に相当協力していました。在郷軍人は在郷軍人会に入っていたので、自警団には入りませんでした。

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこベ - 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)

狩野大助〔当時尋常小学校2年生。押上駅近くの自宅で被災。諸地を通り、東京モスリン吾嬬工場(母が勤める)へ〕
〔1日の〕夕暮れあたり、暗さが増すにつれ、大人たちの間に何か殺気立った緊迫さを感じました。それはテロリストグループの怪情報で、あとでわかったことですが、各町内会ごとに合言葉を定め、自警団を編成、他人に対し警戒態勢を強めたそうです。

(「お月さまが赤く燃えていた」品川区環境開発部防災課『大地震に生きる - 関東大震災体験記録集』品川区、1978年)

千早野光枝〔当時東京モスリン女工。1日の夜は工場の運動場で夜を過ごす〕
〔1日〕火焔が四万の空に物凄い光りを映して燃えていました。その中、誰言うとなく津波が襲って来るの、××人が押し寄せて来たの、〇〇人が爆弾を持って皆殺しに来るのと恐ろしい事ばかり、一晩中安らかな心もなく脅やかされ通しで、あっちへ逃げこっちへ逃げして明してしまいました。
翌る日はそれでも小さな掘り飯を一つずつ貰って餓をしのぎました。〔略。2日〕その夜も津波騒ぎ、〇〇人騒ぎで脅やかされ通しです。

(震災共同基金会編『十一時五十八分 - 懸賞震災実話集』東京朝日新聞社、1930年)

山本〔仮名〕
小村井のあたりは全部田んぼで、家はぽつぽつある程度でした。
9月1日の夜から「朝鮮人が来るぞ」というようなうわさがとんだ。私たちは余震があるので、近くの土方さんの家の前に並べて置いてあった土を運ぶ大きな四角い箱のなかに入って寝ていたけど、朝鮮人のうわさを聞いて危ないからと、また家のなかに入って寝ました。
香取神社〔軍の大隊本部設置〕の祭のやぐらの下には、死体がいっぱい運びこまれて、むしろがかけてありました

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこベ ー 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)

〈1100の証言;墨田区/雨宮ヶ原付近〔現・立花5丁目〕〉
鈴木〔仮名〕
9月1日は早く逃げて夜は雨宮ケ原という原っぱに行きました。東武線の小村井駅の近くの大きな蓮田で、東洋モスリン(東京モスリン亀戸工場と思われる)の女工さんたちも何千人だか全員避難していました。一般の人も避難していました。そのとき、朝鮮人騒ぎがあったんです。朝鮮人がモスリンの女工さんに絡まったとか、泥棒したとかいうデマが飛んで、朝鮮人狩りみたいなことが始まったんです。

朝鮮人も蓮田に逃げた。その蓮田で朝鮮人を竹槍で殺したんです。2人か3人殺されるのを見ました。蓮田で殺された1人は女の人で、この人をつかまえてきて殺すのを見ました。手をすって謝っているけど、皆いきりたってるからやっちゃうんだね。どぶの中をころがしたり、急所を竹槍で突き通したりして殺したのを見ました。現にそんなことをやったんだからね。ああいう奴はもう酷だをと思ったけれど、止めることも何もできませんでしたね。ただ茫然と私は見ていた状態なんです。

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこベ - 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)

宮沢〔仮名〕
私たちは最初、いまの錦糸公園のところの原っぱに逃げ、亀戸天神まで行きましたが、火の粉が飛んでくるのでおおぜいの人たちと小村井の雨宮ケ原に逃げていきました。
〔略〕1日の真夜中に朝鮮人騒ぎがありましたよ。「オーイ、オーイ」と呼びあって、逃げないように取り囲み、丸太ん棒や鉄棒で殴り殺していました。まだ死なないと魚屋の若い人がまたいで出刃包丁で胸のところからちんぽのところまで裂いてしまい、木の棒などで腹わたをえぐり出していた。〔略〕そのことは父親から聞いたんです

〔略〕雨宮の原っぱでは朝になると水ぶくれになった死体が荒縄で縛られ、ほっぽり投げられていました。2、3人殺されていました。焼けているほうからはドカーンドカーンと大きな音がして、それは朝鮮人が爆弾を投げたんだと騒いだりしていました。

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこベ - 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)

〈1100の証言;墨田区/請地・押上・横川
内田良平〔政治活動家〕
1日夜9時頃向島請地稲荷神社の側にて鮮人2名群衆に追い詰められ居合わしたる避難民も群衆と共に協力してこれを捕えんとしたるに〔略〕その1人は遂に逸走したり。
(内田良平『震災善後の経綸に就て』1923年→姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』みすず書房、1963年)

宮沢ゲン       
〔1日12時半頃、押上橋近くから舟で吾嬬町へ。徒歩で京成電車の線路上を歩き、線路上で2昼夜過ごす。「山」「川」の合言葉を聞く〕私は警察官など公の人からそんな話〔流言〕を聞いたことはありませんでした。ただ当日、押上橋から舟に乗るときに、小松川、亀戸付近の朝鮮人が襲ってくるなどと言っている人がおりましたから、随分早いうちの流言だったと思います。
(目白警察署編『関東大震災を語る ー 私の体験から』目白警察署、1977年)

『報知新聞』(1923年10月20日)
「暴動の協議中に殺された30名」
朝鮮人労働者は〔略〕震災直後1日午後1時府下吾嬬町請地に集合〔略〕激昂せる付近住民が襲撃して三十余名の鮮人悉く撲殺した事実あり関係住民は厳重取調べをうけている。

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月1日(その3)〈1100の証言;墨田区/旧四ツ木橋周辺〉「その晩かな、朝鮮人が8人ぐらい、荒川側の土手のそばで、自警団か軍隊かは知らないけれども、死んでいました。すごいんですよ、身重の人なんかも死んでいましたよ。河川敷にねっころがしてありました。みんなあおむけになってねえ、射殺みたいでしたよ。四ツ木橋の上では、後頭部をザックリ切られて、その人はまだ生きていましたねえ。」
につづく




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