2018年9月3日月曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月1日(その3)〈1100の証言;墨田区/旧四ツ木橋周辺〉「その晩かな、朝鮮人が8人ぐらい、荒川側の土手のそばで、自警団か軍隊かは知らないけれども、死んでいました。すごいんですよ、身重の人なんかも死んでいましたよ。河川敷にねっころがしてありました。みんなあおむけになってねえ、射殺みたいでしたよ。四ツ木橋の上では、後頭部をザックリ切られて、その人はまだ生きていましたねえ。」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月1日(その2)〈1100の証言;墨田区/雨宮ヶ原付近〔現・立花5丁目〕〉「.....2人か3人殺されるのを見ました。蓮田で殺された1人は女の人で、この人をつかまえてきて殺すのを見ました。手をすって謝っているけど、皆いきりたってるからやっちゃうんだね。.....」
から続く

大正12年(1923)9月1日

〈1100の証言;墨田区/白鬚橋付近〉
A・I 〔当時7歳〕
1日、津波が来るというので私は叔母におぶさって荒川の土手の方へ逃げました。
〔略〕石井さんは私の家の前に住んでいて、白鬚橋の近くの久保田鉄工所で溶鉱炉の親方をしていました。とても義侠心の強い人で、銚子の出身なので言葉は荒かっだですが、すごくやさしみのある人でした。その石井さんの2階に2、3人の若い人が住み込んで溶鉱炉に働いていました。その中に「コウドゥさん」という朝鮮人も住んでいました。コウドゥさんはおとなしくていい人でした。言葉は日本語でしたが、アクセントや言葉使いは変でした。
〔略〕 コウドゥさんを石井さんがかくまっていることを知ったのは震災後少し間がありました。石井さんの奥さんは病弱な人でして、私が見舞いに行った時「かわいそうだからかくまっているのよ」とポッリと話してくれて、私も「そう」と言いました。
〔略〕私の父は、お店に売る物がなくなったので、竹槍を持って、四ツ木橋を渡って千葉の百姓さんの家へ買い出しに行きました。お芋を買ってきて、ふかして売るのです。父は「朝鮮人が出たら竹槍で殺してやる」と言うので、「そんなことしないでよ、おとうちゃん」と私が言うと、「俺の命だって大切なんだ」と言ってきました。そういうつまらないことで殺された朝鮮人も多いと思いますね。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『会報』第34号、1986年)

〈1100の証言;墨田区/寺島警察署付近〉
佐多稲子〔作家。勤務していた日本橋の丸善で被災、寺島の家へ戻り、そばの京成電車の停留所に近所の人と避難〕
〔1日〕暮れかけてきて、どこからともなしに伝わってきたのは、朝鮮人が井戸に毒を投げた、という噂であった。その井戸は近くだし、あっちでも朝鮮人が毒を投入する瞬間につかまえられた。そしてそれは打殺され川に投げられた、という。
〔略〕弟はどこから持ってきたのか、私に、消防の持つとび口を1本握らせた。とび口のさきは鋭く、銀色に光って、それは重いものだった。弟はこれを私の護身用に、それも朝鮮人に対する護身用に握らせたのであった。〔略〕とび口はしかるべき官筋から出たのにちがいなかった。
〔略〕その一夜を心細く、とび口を抱いて地べたに坐っていた。この空地の周囲で、いわゆる朝鮮人騒ぎが起こっているからであった。
アラララ、と聞こえる高い叫び声は朝鮮語らしく聞こえる。竹刀でも激しく打ち合うような音も聞こえる。朝鮮人がこの大動乱に乗じて暴動を起したという筋書を疑う力もないから、空地の周囲の叫び声や、打ち合うもの音を、朝鮮人との戦いなのだ、と私は思っていた。
〔略〕近くのどぶ川にうつぶせに浮んでいたのは、町の住民に殺された朝鮮人の死体であった。工場街である寺島のあたりは朝鮮人騒ぎの大きかった所と聞いている。
(『中央公論』1964年9月号、中央公論社)

相馬〔仮名〕
9月1日の夜になると朝鮮人が井戸に毒を入れるなんて言われてこわくてねえ。それで寺島警察の前の材木置場のところに避難していました。〔略〕夜はねむれませんでしたよ。ワーツとかオーッという鬨の声が聞こえてくるんです。若い人たちが朝鮮人を寺島警察に連れてくるんです。〔略〕一晩中でしたかしら。次の日はひっそりでしたけどね。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこべ - 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)

長谷川徳太郎
寺島町を通り〔1日〕午後8時頃、向島の桜堤(土手)へ出た。〔略〕この堤も避難地化して時間がすぎるに従って避難者が増して来る。ここでも相かわらず三国人に対する流言蜚語は乱れ飛んでいる。(井戸水は呑むな、食べ物に注意しろ)等々と流言が激しいので不安に戦く民衆は実際に動揺せずにはいられなかった。
(長谷川徳太郎『関東大震災の追憶』私家版、1973年)

「日本電線大正12年下期営業報告書」
9月1日関東大震災の襲来に会し、東洋唯一の帝都もたちまち焦土廃墟と化し、流言飛語随所に起り人心恟々、或は主義者の盲動となり或は鮮人の暴動と化し或は不逞漢の横行となる。不幸にして本社付近の如きもまたその範疇を脱する能わずして、十数日間時に夜陰銃声を聞くに至り物情騒然、社員工員数十名の義勇隊を組織し日夜工場の警備を為し、辛うじてその任を全うするを得たり。
(日本電線株式会社編『日本電線卅年略史』日本電線、1937年)

〈1100の証言;墨田区/原公園〔現・橘銀座商店街内〕〉
田幡藤四郎〔当時寺島警察署管内隅田交番勤務〕
〔1日〕夜の10時ころ「原公園のほうから朝鮮人が200〜300人来る」って騒いだわけ。〔略。自警団の連中を〕一時押さえて「とにかく寺島驚察署に行って、そんなことはあろうはずがないから聞いてみるから」って出かけたの。〔略〕警察署に行ってみたら「心配はないからむこうに帰って説得してくれ」って。
(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこベ ー 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)

〈1100の証言;墨田区/旧四ツ木橋周辺〉
I〔本所から四つ木へ避難〕
9月1日の晩方、「つなみだ、つなみだ!」という朝鮮人騒ぎがあって、外へとび出したんですよ。外へ出ると、水がピシャピシャと鳴って……。後で思えば、あの日朝降った雨のたまり水だったんですねえ。
その晩かな、朝鮮人が8人ぐらい、荒川側の土手のそばで、自警団か軍隊かは知らないけれども、死んでいました。すごいんですよ、身重の人なんかも死んでいましたよ。河川敷にねっころがしてありました。みんなあおむけになってねえ、射殺みたいでしたよ。四ツ木橋の上では、後頭部をザックリ切られて、その人はまだ生きていましたねえ。
(「地震と虐殺」誌編集委員会編『地震と虐殺 - 第1次試掘報告』関東大幾災時に虐殺された朝鮮人の逝骨を発掘し慰霊する会、1982年)

つづく









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