2018年9月11日火曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月1日(その11)「「朝鮮人反乱」のデマを発案した張本人が誰であるかをわたしは知らないが、それを流布するのに官憲も手伝ったことは事実です。「朝鮮人300人の一隊が機関銃を携えて代々木の原を進撃中」とか「朝鮮人の婦女子が毒物を井戸に投入しつつあり」とかいった類のビラが麗々しく、いたる所の交番に張られているのをわたしは見ました。」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月1日(その10)「9月1日夕方曙町交番巡査が自警団に来て「各町で不平鮮人が殺人放火をしているから気をつけろ」と2度まで通知に来た外、翌2日には警視庁の自動車が「不平鮮人が各所に於て暴威を逞しうしつつあるから各自注意せよ」との宣伝ビラを散布し、即ち鮮人に対し自警団その他が暴行を行うべき原因を作ったのだと.....」
よりつづく

大正12年(1923)9月1日

〈1100の証言;港区/赤坂・青山・六本木・霞町〉
斎藤輝子〔斎藤茂吉夫人〕
東京市内の大震災の被害は大きく、夜半になると下町で起きた火災は激しく燃え広がり、町中は真昼間のように赤々と照らされた。そのうち、「朝鮮人暴動」の流言が乱れ飛ぶ。すぐ隣の青山墓地には目の血走った男たち数百人が集まり、「攻撃準備!」だの「井戸に毒をまかれた!」などという噂が流れて住民はパニックに陥った。
青山脳病院の職員の中には抜き身の日本刀に向こうハチマキの勇ましい者もいたが、多くは戦々恐々として地に足がつかず、病院内の巡回にも出かけられない有様だった。しかし誰かが病院を見回らなくてはいけない。
「暴徒が潜んでいる」「患者が暴れ出すのではないか」
いろいろな噂が飛び交い、しーんと静まりかえった暗闇の病院を巡回するのは大の男である職員まで尻込みする。しかし輝子は「みんなだらしないわぬ! では私が参ります」と、十文字にたすきをキリリとかけ、草履を紐で足に巻きつけ、着物の帯の間に短刀を挟むという勇ましい姿で、野外で燃え盛る火に照らされた病院内を一人で巡回した。
(斎藤由香『猛女と呼ばれた淑女 - 祖母斎藤輝子の生き方』新潮社、2008年)

〈1100の証言;港区/麻布〉
鈴木東民〔労働運動家、ジャーナリスト、政治家。当時麻布で下宿生活〕
9月1日が来る。関東大震災は40年前の昔ばなしとなったが、東京の真中でそれを経験したわたしの印象は、今でもなまなましい。そのときわたしは地獄絵を目のあたりに見たのです。数々の惨劇の中でも、朝鮮人虐殺にわたしは戦慄と憤りとを感じました。
「朝鮮人反乱」のデマを発案した張本人が誰であるかをわたしは知らないが、それを流布するのに官憲も手伝ったことは事実です。「朝鮮人300人の一隊が機関銃を携えて代々木の原を進撃中」とか「朝鮮人の婦女子が毒物を井戸に投入しつつあり」とかいった類のビラが麗々しく、いたる所の交番に張られているのをわたしは見ました。
朝鮮人を殺せというので、「自警団」が組織されました。八百屋や魚屋のあんちゃんたちまで、竹ヤリや日本刀をぶりまわして、朝鮮人を追いまわし、われわれ市民を監視したり、どなりつけたりしました。わたしの下宿の主人は、錆びついた仕込み杖をひっぼり出して砥石にかけました。
それを笑ったというので、その下宿の主人と下宿人である若い検事とが、わたしに食ってかかりました。朝鮮人の反乱を信じない態度が、非国民だというのです。その検事はどなりました。「警察が認めていることを、君は否定するというのですか」と。東京市民の99%までが、この調子でした。
(「衆愚」鎌田慧『反骨 - 鈴木東民の生涯』講談社、1989年)

〈1100の証言;港区/麻布〉
萩原悠子〔当時数えて5歳。麻布市兵衛町で被災。父親が「特高」〕
〔1日〕午後かなり経った頃、急に横丁が騒がしくなった。男達の慌しい行かい、走り回る音、飛び交う短い緊迫した言葉・・・さっきまでとははっきり異うものものしい気配である。いよいよ大余震がくるのか、と私は怯えていると、数人の - 5、6人か、もっとだったか人数は覚えていないが - 興奮した様子の男達が父を訪ねてきた。取次ぎに出たお姉さんの後ろから見ると、顔見知りの近所の会社員や職人らしいおじさん達で、ゲートルやハッピ、地下足袋に身を固め、お姉さんに取次ぎを頼むのも息せきこんで、険しい顔つき、殺気だった雰囲気である。私は彼らが父と喧嘩をしにきたのかと思った。
ふだん朝夕、父の役所の往き帰り、近所の人達は父に遭うと丁寧に挨拶をし、父もきちんと敬礼を返している。けれど何か私には分らない男同士のことがあるのか、それとも今、町内では男達が総出で何かしているらしいのに一度も出て行かない父に文句を言いにきたのか。もしかして父の病気〔2、3日、腹をこわしていた〕も知っていて、弱っているところを大勢でやっつけようとするのではないか。父がどんなに強くても(私は父の腕力を見たことはないが、強いものと思いこんでいた。32歳くらい。体格もよかった)病気で多勢を相手では。
父は浴衣を着替え、裾をぴちっと押えながら玄関の敷居に近く正座すると、静かに、用件の切り出されるのを待っている。
男達は父を見ると丁寧に挨拶をした。でも私は、まだ油断はできない、と思う。私は父の右肩のすぐ後ろに立っていた。代表格らしいゴマ塩頭のハッピの人が進み出て、一所懸命昂奮を抑え、思いきった様子で「お宅にある武器を全部貸していただけませんでしょうか」
私は思った。彼らは丁寧さを装い、父から先ず武器を取上げておいて襲いかかる魂胆にちがいない。でもうちにサーベル以外の武器があることをどうしてこの人達は知っているのだろう。でも「全部」なんて、そんなに沢山あるのかしら。私の頭に浮かんだのは、いつか母が押入れの行李を整理していた時にちらと見た(気がする)大小の刀と、座敷の長押にかかっている槍らしい、鞘のついたもの(何なのかよくは知らなかったが)くらいだったが、貸さないで!貸さないで! と心に叫んでいた。
父は「武器」への返事はせず、まず理由を訊いた。おじさんは、朝鮮人の暴動が起こって下町は大騒ぎである。大挙してこちらへも攻めてくるだろう、と、今は抑制の堰も切れて、こうしている間ももどかしそうな息づかいである。(右の棒線のような言葉はこの通りそのままであったかどうかは分らない。そういう言葉があったとしても幼い私には分らなかったかもしれない。「朝鮮人」という言葉は知っていたと思うが、どういう人達かは知らなかっただろう。ただ、おじさんの話し方や皆の様子から、乱暴で恐しい人達が多勢で攻めてくる、と理解したのだと思う。それをいま要約して、後年知った言葉を使うと右のようになる。)
父との喧嘩ではない、とほっと私はしたものの、恐ろしい人達が沢山で攻めてくる、という新しい恐怖に捉われた。父は黙って聞き終わると「そういうことはあり得ません」と静かにきっぱりと言った。即答だった。身じろぎもしなかった。(この「得」という言葉も私に解ったのかどうか、と今は思うのだが、どうしても耳に刻みついている。)とにかく、父が一言ではっきりと、無い、と言ったことで、やっと私は緊張が解けたのだった。
ただ、その確信のある言い方が頼もしいと同時に不思議だった。父は2、3日外に出ていないし、外からは往診のお医者さん以外来ていない。どうして分かるのだろう。もしほんとうだったら? と。男達も一瞬気を呑まれたふうで、けれどもまだ半分は後ろの気懸りに引かれる様子で、時々質問をしては聞き入っている。父は一言一言穏やかな口調で答え、諄諄と話をしてゆく。理由をいろいろ説明したのだと思うが、私がはっきり憶えているのは、朝鮮人はそんなに沢山はいない、ということだけである。
父の落ちついた確信のある説明につれて男達は次第に鎮まり、納得し安堵した様子で肯き、丁寧に挨拶をし、格子を静かに引いて帰って行った。それきり横丁の騒ぎはぴたっと止んだ。
〔略。20歳頃〕あの午後武器を借りに来た男達が父の言葉にだんだん鎮まっていったこと、私も父の最初の一言で安心したこと、でも朝鮮人の数は少い、ということのほかはよく解らなかった、と言うと、よく憶えているな、と父はちょっと思いがけなかったようで、このとき、あの当時東京や京浜間に住んでいた朝鮮人の数を、数字をあげて話してくれた。そして、震災で彼ら自身どんな被害を受けているかしれない。余震はまだ続いているのだし、これからどうなるかもわからない時なのだ。・・・「暴動なんか、あり得ないのだよ」と。(傍線は原文のママ)
(萩原悠子『関東大震災の記億』私家版、1998年)

「赤坂区震災誌」
9月1日の夜10時00分頃、表町署の稲垣巡査は、1名の朝鮮人麻布方面にて襲撃せられ、重傷を負いて逃げ来るを発見し、取敢えず氷川小学校に連行き、救護班に就きて応急手当を受けしめそれよりこれを本署に保護収容したり、これ実に赤坂区に於て朝鮮人に注意する第一着の出来事なりき。
(港区編『新修・港区史』港区、1979年)

つづく




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