からつづく
大正12年(1923)9月1日
〈1100の証言;文京区/小石川〉
福沢嘉章〔小石川小日向水道町で被災〕
〔1日夜〕 この周辺の隣近所の人達は、平素は顔が合っても挨拶もしないのに、この地震の起きた日には、夜になるのを待たずに、いち早く自衛組合を組織して、街の治安維持にあたることにした。龍路もその一員に駆り出されたのであった。夕方、1メートル程の丸棒を持った龍路は、近所の若者数人と、襲ってくる何者もいないのに、自衛の名により、狭い私道に通ずる石段のあたりをうろうろ歩いた。しかし、常識では到底考えられない流言飛語が流れた。平素は互に口をきいたこともない人の口からロへと、まことしやかに語り伝えられていったのである。
「横浜市と川崎市には〇〇人の反乱が起きて、今、市民は全滅の状態だ」とか、「〇〇人の反乱軍とわが軍隊は、多摩川を挟んで現在戦争中だ」とか、「東京市内も〇〇人反乱で、既に略奪が始まっている」などと、まことしやかに語り伝えられたのである。龍路はまさかと思いながらも、あるいは大震災に乗じて平素虐げられていた民族が蜂起したのかと、群集心理も手伝って疑心暗鬼の有様であった。なお、公道のわきの石段のところにいた龍路達自衛組合の側を通りかかった勤め人らしい34、5歳年輩の男が、わざわざ足を停めて
「〇〇人反乱軍は、今にも多摩川を越えて東京へ攻め込んでくる状況だ。わが軍は多摩川を挟んで、これを迎え打つ策戦だ。そこでくい止めねば東京は大変だ」と、まるで参謀本部の伝令でもあるかのように語るのであった。後になって、”なんと馬鹿馬鹿しいことだったか”と思うが、その時の群衆は否定もせず、殺気立ったのである。龍路は半信半疑ではあったが、こうした話を聞くたび毎に、何となしおびえて、持っていた棒を握りしめた。
それからしばらくして近所に住んでいた42、3歳の薄い口髭をはやした紳士風の男が、今、勤め先の丸の内から歩いて逃げ帰ったところだと言って、ふだんは顔が合ってもそしらぬ振りをしているのにわざわざ、石段の上に陣取っている龍路達の自衛組へやってきて 「これは今見てきた人の話であるが」と前置きして、ながながと多摩川の戦況を語り、次にこの坂下や近所の屋敷で起きたことだと、立て続けにべらべらと話し続けた。
「日本刀や竹槍を携えたり、天ぴん棒や丸棒を持った若者達が大勢で、〇〇人を追いかけ、みんなで殴り殺したそうだ」と、また、ある追われていた〇〇人は大きな屋敷へ逃げ込んだが、追い詰められ、その屋敷の柿の木へよじ登った。若者達はそれに石を投げたり、竹槍や天ぴん棒で突つき落し、その〇〇人をその家の主人のもとへ突き出した。すると70歳を越えているかと思われる白髪の主人は、若者達から〇〇人反乱の話を聞いて逆上し、奥座敷に飾ってあった刀掛けから日本刀を取り、廊下を伝って庭へおりると、そこに合掌していた〇〇人の首を一刀のもとにはねた。その美事なことといったら驚くほかない。その主人は明治維新の戦争に父と一緒にでたことのある武士だったとか、実にすばらしい腕前である。また上野では〇〇人の反乱が起きて戦っているとか、その男の話すことはすべて龍路には耳を疑うようなことばかりであった。
幸か不幸か龍路はもう23歳にもなっているのに、軍隊生活の経験も戦争に行った経験もない。人と殴り合いの喧嘩をしたこともない彼には、その話は身の毛のよだつ思いであった。残虐な人殺し。何と恐ろしいことだろうか。平素差別され、虐げられ、抑圧され、貧困と飢えにあえいでいた〇〇人を、たとえ略奪行為があったにせよ、虐殺までせねばならないだろうか。逆上した群衆は〇〇人を捕えるそばから殺害したという。ことに上野では維新戦争のような戦が起きて、多数の〇〇人が虐殺されたという流言である。
関東大震災は、東京市民の一部の人達を逆上せしめたようである。分別ある筈の大家の老人が、是非の分別もなく、人を殺害したというのである。もしも殺害された遺族に老人や幼児が残されていたなら遺族はどうして生きていくのか。当時哀れな人を助ける社会施設はなかった。殺された人の怨恨は、どこで裁かれたのだろうかと、龍路は彼自身責められる思いであった。
(福沢嘉章『関東大震災』近代文芸社、1986年。実体験をもとにした小説)
〈1100の証言;文京区/本郷・駒込〉
大崎省吾
〔1日夜、本郷で〕午後の10時頃であったか。鬨声があがった。わあわあわあっとあがった。〔略〕お隣の方でも庭に飛び出て、何か、がやがやと騒いでいる。はて、何事かなこれは。
静かに、声をたずねてみると、それは、巣鴨監獄の囚人だ。囚人に間違いなしと、思うとそこに一つの恐怖心が起って来た。あの獰猛な奴らに脱獄されては堪らない。どんなにあらされるか知らん。これは、地震以上だ。と、ここにまた一苦労が増して来た。よりより、お隣の工藤さんや山下さん、それから高野さん等と相談をして、いよいよ自警団を組織して警戒の任に当ろうということになった。世は、ますます物騒である。
〔略。2日〕夜の8時過である。伝令々々と声をかけて、向こうの千歳湯の方からやって来る一人。驚破、何事と耳をそばだてると、「大塚終点へ鮮人来襲。終り」
おのおの打物を確かと握り締めてはみたものの、朧夜の月に映る顔は、誰も彼も蒼ざめて見える。びりびりとふるえている。あのどさっと来た地震よりもふるえているようだ。
しばらく、顔見合わせて沈思、黙念の体である。監獄の方で、今夜もまた、大きな鬨声である。あの高い2丈もある赤煉瓦の塀。今、乗り越えたのではなかろうか。あの、黒金の門を押し破ったのではなかろうか。 - 溜息をほっと吐く。手の先、足の先が痺れてくるのが覚えられる。
誰々は、どの往還を。誰は何小路を。と、それぞれ部署を定めて警戒につく。誰彼の別なく、一々誰何するという訳で、鼠一匹も無断では通過させぬという厳重さである。
家族の者どもは、囚人とか鮮人とかいう声で、一歩も外に出ない。ただ、時々襲い来る地震を警戒し、万一の場合をと、それぞれ手筈をしている。
(大崎省吾『あらし』修省書院、1941年)
斎藤寅次郎〔映画監督〕
〔1日夜、本郷で〕夜になると各方面から火の手が上り、東京の空一面真っ赤、焼け出された人波が次第に多くなり、荷物を背負った避難民で一杯になった。我家のあるお寺の境内も避難民で満員、朝鮮人の放火、井戸へ毒薬投入等流言蜚語が乱れ飛んだ。
(斎藤寅次郎『日本の喜劇王 - 斎藤寅次郎自伝』清流出版、2005年)
松田徳一〔駒込で被災〕
かくて、1日の夜は、神明社の空地に、露営する事になった。予は20年来練った事なれど、家族や多くの婦女子などは、はじめて体験するらしいので、夜もすがらろくろく眠ることさえ叶わぬ。しかも、激震は絶えず連続的に、またやや強震のそれは2時間乃至3時間おきに、間歇的に見舞うのであった。日が暮れて間もない時に、ある若者が「ソラ、朝鮮人が来た、火を放った、ソラソラ、そこにそこに。」と。老若男児は更なり、幼き小児までが、手に鉄棒を提げ、追い回る様は、あたかも兎狩りや豚駆りのようで、人々の神経は極度に昂奮して、町の辻々やその入口には、関所が至る所に二重や三重にも重複して設けられ、さながら蟻の遙出る穴もないという有様であって、いちいち通行人を誰何し始めたのは、今から思っても滑稽の様でもある。
〔略〕人々の扮装は、赤毛布ならぬ上衣を左手に携え、右手には棍棒や鉄棒や、金剛杖など、手に手に持ちピストルや短刀を懐中するものなどもあり。
〔略。2日〕 なお火焔は一向にやまず。益々盛となり、サア神楽坂が焼けかけた、柳町が!若松町が火事!と、朝鮮人が300人ばかり、横浜方面より押寄せて来た。サア大変だ大変だと噂は噂を生じ、それからそれへと、根もなき虚伝が拡がりて、混乱不安の状は真に名状すべき辞がない。在郷軍人青年会有志会とて、公私の団体は各同区町の警備に任じ、各竹刀棍棒ピストル鉄棒などを持って護身の武器となし、真実に物騒千万戦国状態であった。
午後4時、東京府及びその近県にわたり、戒厳令が下った。兵隊がいよいよ乗り込んだ。しかも将校は軍刀を、下士以下は戦時武装をなし、各所の哨所にはいち早く着剣した兵卒が立つ事になった。
(松田徳一『涙の泉』二酉社、1923年)
三輪俊明〔当時8歳。浅草田島町で被災、本郷西片町へ避難〕
〔1日夜遅く〕 ここで朝鮮人騒ぎが始まった。朝鮮人が戸毎の井戸に毒薬を入れて回っているというデマが、ここ本郷にも広がり始めた。従って本郷辺りも住民による自警団が組織され、各自は、日本刀とか、ピストルを携行して警戒するという物騒なことに発展して行った。
(三輪俊明『生い立ちの記』表現社、1987年)
『報知新聞』(1923年10月29日)
「警官の非を挙げて本郷自警団が決起 煽動、宣伝の事実を一々指摘して内相、総監に検挙団員の釈放を迫る」
まず曙町村田代表から、9月1日夕方曙町交番巡査が自警団に来て「各町で不平鮮人が殺人放火をしているから気をつけろ」と2度まで通知に来た外、翌2日には警視庁の自動車が「不平鮮人が各所に於て暴威を逞しうしつつあるから各自注意せよ」との宣伝ビラを散布し、即ち鮮人に対し自警団その他が暴行を行うべき原因を作ったのだと報告すれば、
次に森川町の小野代表が立って、丁度9月4日肴交番の巡査は折柄通行中の支那人を捕え鮮人と間違えて、この鮮人をヤッツケロと自警団員を使嗾したので団員の多勢はこれを殴打負傷させた。支那人は付近の医師の手で一命はとり止めだが、9月14日になって自警団員が殴った事が知れて14名の団員は重大犯罪者の如く取扱われ目下東京刑務所に収監されている。その責任は果して誰にあるか、尚本件については証人も多数あると卓を叩いて悲憤の涙を流し、続いて千駄木町その他各町代表はいずれも警官の非行を報告し、この際本郷区はこれを一部の区会議員や自警団のみに止めず本郷全区民の声として一般の世論を喚起し、目下収監されている団員救助の方法を講ずる為め佐藤氏〔弁護士佐藤有泰〕を委員長とし数名の委員をしてこれが貫徹を期するため、警官の非行を一括して警視総監、内務大臣に陳情することを悲憤憤慨の裡に可決したというが、早くもこの事を探知した上野憲兵隊では事件のより以上悪化せんことを恐れ特に私服を増派して驚戒中である。
つづく
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