東京 北の丸公園 2012-05-10
*承平7年(937)
この月
・平将門、恩赦となる。
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1月7日
・朱雀天皇、元服(『日本紀略』)。
この直後に、天皇は忠平の兄右大臣仲平を左大臣に任じ、大納言藤原恒佐(つねすけ、故良世の息)を右大臣に起用した。
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5月1日
・平将門、都を離れ帰国。
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8月7日
・帰郷した平将門、平良兼と戦い敗走。
将門が、常陸国と下総国の境の子飼(こかい)川の渡場に到着すると、復讐の念に燃える平良兼と源護・平貞盛、良兼の子公雅(きんまさ)・公連(きんつら)らが「故上総介高茂(たかもち)王」「故陸奥将軍良茂(よしもち)」の画像を陣頭に掲げ待ち伏せていた。
「故上総介高茂王」:将門の祖父高望王。
「故陸奥将軍良茂」:「陸奥将軍」とあり、鎮守府将軍であった将門の父、良持(「よしもち」)の可能性が高い。
この霊像を掲げた意味は、平氏一族の正統性が良兼側にあること、自分の父に弓を引くことができるのかという良兼の挑戦、心理作戦であった。
その隙に乗じて、良兼は精鋭をもって将門を襲撃。
将門はなす術なく退散。本拠の鎌輪宿に帰還。
良兼は、将門の伴類の一人、多治経明(たじのつねあきら)が別当を務める下総国豊田郡来栖院常羽御厩(いくわのみまや、茨城県結城郡八千代町尾崎)及びその近辺の伴類の家を焼き払った。
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8月17日
・将門の妻の捕縛
将門は、屈辱をはらすために二倍の軍勢を整え、8月17日、下大方(しもおおかた)郷の堀越渡(茨城県つくば市大形)で良兼を待っていた。
ところが、将門は「脚病(きやくびよう、脚気か)」に罹り、自由が利かなくなった。
伴類は蜘蜂の子を散らすように逃げ去り、良兼は将門の本拠である豊田郡を焼き巡った。取り入れ間近の農作物、人馬に大きな損害が生じた。
将門は、本拠豊田郡が壊滅的打撃を被ったためもう一つの本拠の猿島郡に落ち延び、妻子を猿島郡葦津(あしづ)江(葦津郷)の畔に船に載せて隠し、自分は山を背にした場所に隠れていた。
翌18日、良兼勢は、兵を解散させ、将門に見せつけるかのように、猿島郡の道を凱旋しながら上総国へ帰っていった。
将門の妻が岸に船を寄せたところ、良兼側と内通していた人物の手引きで、生け捕りにされ、20日に上総国へ護送された。
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9月10日
・捕縛された将門の妻が将門を懐かしく思いはじめので、妻の兄弟(良兼の子)たちは、9月10日、密かに妻を将門の本拠豊田郡に送り届けた。この兄弟は、後に将門討伐に加わる公雅(きんまさ)・公達(きんつら)であろう。
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9月19日
・将門は、良兼が「因縁」を頼って常陸国に到来したのを聞きつけると、兵1,800ほどを動かして、9月19日、真樹と共に真壁郡に向かい、良兼の服織(はとり)営所(茨城県桜川市羽鳥)を手始めとして、伴類の家々などを焼き払った。
この後も将門は良兼を捜索し、筑波山に隠れているという噂話も流れたが、見つけることはできなかった。
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9月23日
・23日、良兼は、筑波山の東、弓袋(ゆぶくろ)山の南から鬨の声を揚げた。
将門も楯を固めて、「簡牒(開戦を知らせる挑戦状)」を通わせて戦った。
この度の合戦は収穫期。稲を泥に踏み込みながらの戦いとなった。農繁期は戦いをしないという原則は次第に守られなくなっていく。
このことは、農民が彼らからしだいに離れていく原因になった。
結局、将門は今回も良兼を追い詰めることはできなかった。
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