2012年8月12日日曜日

元亀2年(1571)5月 第一次長島戦争 信長敗れる [信長38歳]

東京 北の丸公園 2012-08-09
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元亀2年(1571)
5月
・讃岐の香西駿河入道宗心(管領細川家部将)、備中児島郡本太城を攻略。城将吉田右衛門、討死。
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・正親町天皇、武田信玄へ曼殊院准后の天台座主就任に際しての援助を要請、見返りに信玄に僧正位を付与。
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5月上旬
・武田勢、牛窪・長沢攻撃し甲府に戻る。
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5月6日
箕浦の戦い
浅井長政、姉川まで進軍。
一部軍勢は箕浦(坂田郡近江町)の堀秀村居城近くまで進出。
一揆勢と浅井長政部将浅井井規ら8千、鎌刃城(堀次郎・樋口三郎兵衛、坂田郡米原町番場)300を攻撃。
木下秀吉、横山城は竹中重治に守備させ、兵100で鎌刃勢と合流、箕浦に着陣の敵に向う。
下長沢(近江町)・下坂(長浜市下坂浜町)のさいかち浜で戦い、八幡下坂(長浜市神前町八幡神社)まで追い崩す。
浅井長政、軍を引き上げる。
一揆の大将順慶寺大坊主、討死。本願寺顕如、振れ書発す。
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5月9日
・松永久秀、大和国窪城へ軍勢を派遣し攻撃を開始。
11日、撤兵。
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5月10日
第一次長島戦争(長島一向一揆征伐)
信長5万出陣。一揆勢主将下間三位法橋頼旦・副将願証寺大坊主・服部左京亮。
12日、信長、津島(現愛知県津島市)に入り本営とする。揖斐川を遡った太田口(海津市南濃町太田)にあたり戦線を展開(川内流域掃討のため)。

■「川内御堂」:
蓮如の子蓮淳に始る長島願証寺。東海・畿内を繋ぐ陸海流通の大動脈。
「渡り」人(海人・舟人など漁業・流通の担い手、木地・金堀り・鍛冶など土地なき非農民層)が主流(惣村=一向一揆論(農民一元論)とは異なる)。
伊勢長島の門徒は、顕如の曾祖父の蓮淳が「長島本坊」といわれる願証寺を開いて以来、木曾川・長良川・揖斐川の各流域に生活する人々の信仰を集めて、一大勢力になっていた。
河川に囲まれ、伊勢湾に面する長島は、領主の介入と物品の徴発を拒みつづけた「河内」の寺内町であった。

『信長公記』(巻七)
「そもそも尾張河内長島と申すは、隠れなき節所なり。濃州より流れ出づる川あまた有り。(中略)山々の谷水の流れ、末にて落ち合い、大河となって、長島の東北西五里・三里の内、幾重ともなく引き廻し、南は海上漫々として、四方の節所申すは中々愚かなり。これに依って隣国の佞人兇徒(ねいじんきようと)など相集まり住宅し、当寺(願証寺)を崇敬す。
本願寺念仏修行の道理をば本とせず、学文無智の故、栄華を誇り、朝夕乱舞に日を暮らし、俗儀を構え、数ヶ所端城(はしじろ)を拵え、国方(くにかた)の儀を蔑如(べつによ)に持て扱い、御法度に背き、御国にて御折檻の輩をも能(よ)き隠家と抱え置き、御領知方押領(おうりよう)致す」

(河川による地の利を得た無智蒙昧で、領主の介入を拒む無頼の徒の実態が、いわゆる「武家の論理」の側から描かれている。)

この年初め、本願寺は長島へ援軍(下間頼旦・頼成)を送る。
本願寺証意・下間頼成が檄文発す。
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5月12日
・この日付の武田信玄叔父の一条信竜の松永久秀家臣岡周防守宛の書状、「公儀御威光をもって、上洛なさば無二に申し合わすべきの旨」。
17日、信玄の同人宛て書状、「そもそも公方様(義昭)信長に対され御遺恨重畳ゆえ、御追伐のため御色を立てらるの由に候条」。
義昭、松永と手を組み信玄とも通じて信長打倒の策謀企て始める。

9日付の武田信玄の本願寺坊官下間頼廉宛ての書状では、「遠三濃三ヵ国、山中も残りなく静謐」と伝える。
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5月16日
・信長、三方より伊勢長島一向一揆の拠点願証寺を攻撃。
戦況が進展しないまま、大田口の織田勢は付近に放火しながら兵を返す。
結果、一揆勢が周囲の山々から繰出し、弓・鉄砲で追撃。
柴田勝家は殿軍で負傷氏家卜全(直元)ら多くの戦死者を出して信長軍は敗退
大田口合戦で惨敗。

信長自身は津島口を進み、
①中筋口(三重県長島町の大鳥居辺り)からは佐久間信盛・浅井新八・山田三左衛門・長谷川丹波・和田新介・中嶋豊後らが、
②川西の多芸山から大田口(岐阜県南濃町太田辺り)へは柴田勝家・市橋長利・氏家ト全・伊賀平左衛門・稲葉一鉄・塚本小大膳・不破光治・丸毛長照・飯沼勘平が進む。

一揆側は、本城長島を中心に各中州に砦を持ち、西岸には大鳥居(桑名郡多度町)・屋長島(桑名市下深谷部字宇柳ヶ島)・中江(桑名市)の砦、東岸には市江島(佐屋町と弥富町の間)・五明の砦、北方には小木江城など十数カ所の要塞。しかも、夫々が川によって遮られている。

『武功夜話』(巻五)が描く長島の内情
「この度の一向宗徒の輩、桑名表西の別所を併せ長島本坊(願証寺)へ籠り、謀反の出待(でをまち)その勢熾(さかん)なり。百姓宗徒の者、諸国牢人、喰いつめ無頼の者に在地の侍衆も相加わり、長島本坊を堅固に取り構え、周囲に堀をめぐらし、矢蔵(櫓)を構え、鉄砲を備え、楯籠る男女の宗徒二万有余人、海上は紀州舟兵粮を運び入れ、島中に取出(砦)十有余ヶ所へ人数詰め入れ、生便敷様体(おびただしきようたい)なり」

長島の門徒衆は、杉江にある願証寺を中心に長島の島内はもとより、桑名にも勢力を張っており、さらに紀州の船が熊野灘を経て、長島まで出入りしていたことが窺える。この紀州勢には、本願寺の坊官の下間頼且(しおつまよりかつ)・頼成が率いる援軍もいたといわれている。

また、『北畠物語』によれば、門徒衆の反攻は強力なものであったようである。
「北伊勢長島の近辺島々の海賊等、此者共に一味し、難所をかかえ、一揆を起こし、男女ともに必死のちかいをかため、身を軽くし、国主の下知をかえりみず、諸所を押領して悪逆を振まう。このゆえに滝川(一益)長島において日夜合戦をはげますといえども、一揆の奴原その志一致にして、更に物の数ともせず」
北伊勢を信長から託された滝川一益であったが、近辺の「海賊」と結んだ長島門徒衆に悩まされたというのである。この『北畠物語』の記述でも、領主に従わない「海賊」と見なされた漁業・水運業者などの長島門徒衆の実態がみられる。彼らは水運を利用して生計を立てていたもので、この水運を利して信長方を翻弄したようである。
攻めあぐんだ信長は、五日後の十六日に撤退を命じるが、長島西方の太田口では門徒衆に襲われた信長勢は敗走し、氏家直元(卜全)は討死し、柴田勝家は負傷して、総崩れの状態であった。

「長嶋の一揆共、山山へ移り、右手(めて)は大河なり、左りは山の下道一騎打ち節所の道(一騎ずつしか通れない狭くけわしい道)なり。弓・鉄砲を先々へまわし相支へ候」(「信長公記」巻4)。
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5月17日
松永久秀、信長へ叛意
大和信貴山城主松永久秀、信玄上洛と協力約束。三好三人衆とも手を結ぶ。裏で糸を操るのは足利義昭。
27日、松永久秀・久通父子、大和国交野城より多聞城に帰城。
30日、松永久秀・久通父子、信長へ敵対し出陣。
三好三人衆、松永久秀の信長に対する謀叛に呼応、畠山昭高居城の河内国高屋城撃。遊佐某らが籠城。
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5月19日
・スペイン軍、マニラ占領。
マニラ武力制圧のスペイン人初代総督メハエル・デ・レガスピ(66)、スペイン政庁首都建設着手
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5月20日
・教皇・ベネツィア・スペイン間の同盟成立。トルコに対抗。
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5月24日
・タタール人のモスクワ放火。
クリミアのタタール人のモスクワ郊外の木造家屋に放火。クレムリンのみ焼け残る大火。犠牲者50万、捕虜10万。
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5月25日
・イシュトヴァーン・バートリ、トランシルヴァニア公となる。
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5月28日
・毛利輝元、弥権大夫に防府の宮市魚物役を安堵。
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5月29日
・比叡山延暦寺、諸国に根本中堂の日供の資を求める。
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