2012年8月2日木曜日

安和2年(969)3月 安和の変(3) 陰謀の主役はだれか 源満仲、有力武士団秀郷流を追落とす

東京 北の丸公園 2012-07-27
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安和2年(969)3月 安和の変(3)
■陰謀の主役はだれか
①右大臣師尹:
野心家であり、高明を追放して左大臣に昇り、続いて関白実頼(70歳で近頃は病気がち)の地位を目指していたと考えられる。
彼は、天皇の外祖父師輔の兄弟ということでは実頼と同じ立場で、実頼と交代する見込は十分ある。
娘の芳子は村上天皇の寵愛を受けて、第八皇子永平親王を生んでいる(但し、人物としては次期東宮の器ではなかった)。
いずれにしろ、彼の左大臣の地位に対する執着は強かったと思われ、師尹は噂通りの最有力の容疑者と思われる。

②関白太政大臣実頼
かつての師輔との対抗意識から、師輔と緑の深い高明を排斥しようとした有力な一味ではないかとの説がある。
しかし、師輔との後宮での競争では完敗したが、既に師輔、安子、村上天皇も亡く、為平親王立太子を阻止できた以上、病気勝ちの老人に高明追放にまで押し進む気持があるかどうか。
まして、信心も強く、小野宮邸の南側からは稲荷神社の神木である大杉がよく見えるので、稲荷明神がご覧になっているからと、日ごろ南側には乱れ髪のままでは出なかったという話があるくらいの人物が、神仏の崇りを恐れず高明を失脚させるような所行を行ない得るかどうか。
事件当日、参集した右大臣師尹以下の公卿は会議を開いて警固の手はずを整え、密告文を実頼に報じている。もし実頼が主謀者であれば、もっと積極的な動きが見られるのではないか。
彼は主謀者ではなくて、お膳立てが出来上がっている以上、撤回は不可能と見て、成り行きに任せたと思われる。

③伊尹(これただ)・兼通・兼家:
師輔の子、天皇の叔父、彼らにとって高明は姉妹の夫、即ち義理の兄弟の関係。
しかし、彼らは40代の分別盛り、これからの栄達を目指して前進中で、一身の栄達のためには兄弟とも正面衝突を辞さないくらい(兼通・兼家の兄弟の争いは有名)。
高明と親しかった父の師輔は亡く、氏長者実頼は老齢無力な状況下で、彼らが高明を排除しようとしても不自然ではない。
なかでも伊尹はその娘の懐子に、冷泉天皇の第二皇子師貞親王が生まれており、東宮守平親王が即位すれば次の東宮にこの師貞親王をという予定路線ができあがっている。この計画を推進するには、少しでも邪魔を少ないほうがいい。兄弟間では利害が一致している訳ではないが、左大臣高明追放の一点では協調したと考えられる。

■源満仲の勢力、清和源氏の嫡流
承平・天慶の乱で名を売った源経基は清和天皇の孫、満仲その経基の子
源氏は、嵯峨源氏に始まり、仁明・文徳・清和・陽成・光孝・宇多・醍醐・村上と9種類に大別される。これらは、天皇の子孫は源氏を名乗るという慣わしがあるため同じ源氏を称しているだけで、ただ源氏といったのでは先祖は皇統から出たなということがわかるにすぎない。
後世は清和源氏が圧倒的に優勢になり、源氏といえば清和源氏しか考えなくなってしまったが、平安朝では、諸源氏の中では清和源氏がもっとも軽く扱われた。清和源氏が最も早く武士に転業し、その後再び中央に緑を結んで成りあがろうとする姿勢を取ったところに原因がある。古い嵯峨源氏にもその傾向は多少見える。

経基や満仲の代は、武士としての名はあったが武門の棟梁などという地位にはおよそ程遠く、東国で圧倒的な勢力を持っていたのは藤原秀郷や平貞盛の子孫であった。
その他全国至る所に中央から下った名ある者や在地の有力者などがあって、統制なく、同族・異族ことごとに勢力を争っていた。

■満仲の政治性
満仲の優れた点は、武力だけではなく、巧みに中央貴族と縁を結ぶことに成功したその政治性にある。
満仲は安和の変の頃は左馬助という武士向きの役に就いていたが、兄弟の満政・満季なども京都にいて、検非違使になる者もあり、私設検非違使のような役割で警察業務を臨時に命ぜられることもあって、貴族たちに便利がられていた。
一方、藤原秀郷の子の千晴も一族をひきいて上京していたし、藤原善時・橘繁延なども、官職を持つ役人ではあるが、同時に武力を備えた武士であったと思われる。
彼らは、かつて平将門が私の主人として藤原忠平に仕えたように、有力な貴族に従っていた。満仲が主人にしていたのは、師輔の弟、事件の主謀者と思われる師尹と考えられる。

天徳4年(960)10月、平将門の子が入京したという噂が立ち、朝廷は検非違使に命じて捜索させるとともに、源満仲や大蔵春実(おおくらのはるざね、天慶の乱に活躍した九州出身の武士)に命じて京都の警戒に当たらせた。この時、将門の子入京の噂ありと奏上したのは権大納言師尹であった。情報源は満仲あたりではないかと思われる。


さらに、村上天皇没の際、伊勢固関使として出発すべき命を受けたのは、満仲と藤原千時であったが、2人はともにこれを辞退した。満仲は病気と申し立て、千晴の辞退理由は不明だが、朝廷は千晴の辞退は許さず、結局千晴は出発したらしい。
この時、2人は、この変動期に京都で混乱・動揺が予想される状勢にあって、主人の指令により在京して備えることを心がけたのではないかと推測できる。

そして安和の変がおこる。事件は満仲の密告によって起ったが、主謀者は師尹であろうと思われる。満仲が師尹の命を受け、自分の有力な競争相手である千晴の失脚をも意図して、密告の挙に出たという可能性は充分に認められる。
結果として満仲は摂関家のために働き、千晴は失脚した。
この後も、満仲は常に摂関家の指令に従い、その子頼光・頼信もこの路線を守って地位を固めていく。
一方、東国の藤原氏は、首領千晴を失って遂に中央に勢力を伸ばすことなく終わる。
清和源氏が、摂関家の忠実俊敏な番犬として接頭する経過は、この安和の変において第一段を刻んだ。

■満仲、秀郷流を葬る
源満仲の室は嵯峨源氏の能吏、源俊の娘。彼女のイトコは高明の室、叔母は高明の母であり、満仲は姻戚関係を通して高明と結ばれていた。『源平盛衰記』などが語るように、満仲が元来高明に祗候しながら裏切った可能性は高い
藤原秀郷は将門追討の立役者として満仲の父経基を凌駕する武威を誇っていた。その子千晴が京に進出すると満仲の立場も動揺する。また、千晴と満仲(武蔵権守を経験している)の間には、以前から武蔵をめぐる対立もあった。その千晴が高明と政治的な結合を深めたことで、満仲は藤原北家側に立つ決断を下したものと考えられる

満仲は安和の変の恩賞で正五位下に叙され、藤原北家の深い信任を得て、京における武士の第一人者の地位を獲得した。
変の翌年、満仲は摂津国川辺郡多田(現川西前)に多田院を建立したという所伝がある。

安和の変は、勃興しつつあった武士の棟梁どうしの反目という面も持っていた。
満仲は、この事件で単に密告の恩賞に与っただけではなく、対立する武士団を葬り去るという一石二鳥の役得をした。
こうして、秀郷流藤原氏は没落し、源氏が平氏とともに武士の棟梁に成長して行くことになる。

■主要な武士の流れの概観
10世紀前半の承平・天慶の乱において、将門の乱を平定した藤原秀郷は、六位から従四位下下野守に、平貞盛は従五位上右馬助に任命された。
将門の謀反を朝廷に告げた武蔵介源経基は、藤原純友の乱の平定にも活躍し、大宰大弐に任命された。
この大乱鎮圧に功のあった三人は中央軍事貴族の地位を獲得して、その子孫である秀郷流藤原氏・貞盛流平氏・清和源氏(河内源氏)は、この後、中央軍事貴族、地方軍事貴族として活躍していく。
このうち、清和源氏と秀郷流藤原氏は中央軍事貴族として重んじられたが、清和源氏である源経基の子満仲は、安和の変以降、摂関家との関係を一層深めていく。
一方、秀郷流の藤原千晴は、安和の変で源高明に連坐し、隠岐国に配流された。
この後、中央軍事貴族の第一人者は清和源氏となる。
貞盛流平氏と秀郷流藤原氏は、坂東においては地方軍事貴族として、中央軍事貴族となった一族と連携しながら発展していった。

■武士団と所領(満仲と攝津国多田)
『今昔物語集』巻19第4に、満仲が多田で郎等を組織し、彼らに私刑を加え、狩猟や鷹飼によって多くの殺生を行うという罪業深い生活を送り、息子源賢とその師源信によって出家に至るという説話がある。
この説話は後世の武士団の姿を投影したものとされるが、多田に郎等たちを居住させて統制し、狩猟などで武闘訓練を行ったことは事実であろう。多田が検非違使などの立ち入りを拒む、一種の治外法権を有していたことは、多田源氏に関する文例を集めた『雑筆要集』という史料から明らかである。
こうした所領と武装集団の形成によって、東国の平氏と同様に武門源氏も本格的な武士としての性格を有することになった。
多田は京から一山を越えた間近な地であり、京で有事の際にすぐに武士を動員できる場所である。
桓武平氏は東国に拠点を築いたが、東国から郎等を動員していたのでは京における軍事活動に対応できない。
以後、桓武平氏も伊勢・伊賀に進出し、満仲の次男頼親は大和に、そして三男頼信は河内に進出し、京近郊の拠点を形成することになる。
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