2012年8月2日木曜日

川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(30) 「二十一 探墓の興 - 墓地を歩く」(その2)

東京 北の丸公園 2012-07-27
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川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(30)
 「二十一 探墓の興 - 墓地を歩く」(その2)


昭和12年6月22日
吉原からの早帰りの途中、三ノ輪の浄閑寺を訪ねる。寺は震災の被害も受けずに昔のままの姿をとどめていた。
「門を見るに庇の下雨風に洗はれざるあたりに朱塗の色の残りたるに、三十餘年むかしの記憶は忽ち呼返されたり」
「六月以来毎夜吉原にとまり、後朝のわかれも惜しまず、帰り道にこのあたりの町のさまを見歩くことを怠らざりしが、今日の朝三十年ぶりにて浄閑寺を訪ひし時はど心嬉しき事はなかりき。近鄰のさまは変りたれど寺の門と堂宇との震災に焼けざりしはかさねがさね嬉しきかぎりなり。余死するの時、後人もし余が墓など建てむと恩はゞ、この浄閑寺の塋域娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ。石の高さ五尺を超ゆべからず、名は荷風散人墓の五字を以て足れりとすべし」

昭和10年の随筆「里の今昔」によれば、初めて浄閑寺に行ったのは、明治31,32年。20歳の頃。
「箕輪の無縁寺は日本堤の盡きやうとする処から、右手に降りて、畠道を行く事一、二町の処に在った浄閑寺を云ふのである。明治三十一二年の頃、わたくしが掃墓に赴いた時には、堂宇は朽廃し墓地も荒れ果てゝゐた。この寺はむかしから遊女の病死したもの、又は情死して引取手のないものを葬る処で、安政二年の震災に死した遊女の供養塔が目に立つばかり。其他の石は皆小さく蔦かつらに蔽はれてゐた」
当時すでに荷風は、この投込み寺の荒廃した様子に心惹かれていた。
初期の短篇「おぼろ夜」(明治33年)では、薄幸の吉原の遊女が葬られる場所を浄閑寺に設定している。

6月22日のあと、6月28日と7月8日に浄閑寺を訪ねている。
7月8日には墓石を丹念に見ている。いずれの場合も、一人で来て、一人で帰り、寺の人間に案内をわずらわせることはない。


浄閑寺の住職岩野真雄は小文「永井荷風先生と浄閑寺」(「文学散歩 十七 永井荷風記念号」昭和38年4月)。
「爾来、荷風先生が幾度浄閑寺へ歩を運ばれたかは、寺側では一向に存知せぬ処であった」。
はじめて寺の客となったのは、昭和31年1月18日。
「寺に三十年働いている老女がその際、『あの方ならたびたびお詰りに来ていらっしゃいます。いつもやさしくニコニコしていらして、今に門や本堂が立派になりますと言いましたら、いや、こうペンペン草が生えている所がいいのだ、と仰言ったので、変ったお人だと思いましたが、そんなえらいお方だったのですか』と告げた」。

「日乗」にはじめてあらわれる墓参は、大正2年1月2日に62歳で死去した父永井久一郎の墓へのもの。毎年、正月2日に、雑司ケ谷墓地にある「先考」の墓に墓参。律義に父の命日に墓参する。
大正7年1月2日、「蝋梅の花を裁り、雑司谷に往き、先考の墓前に供ふ」

大正8年1月3日、「快晴稍暖なり。午後雑司谷に往き先考の墓を拝す」
大正11年1月2日、「タキシ自働車を雑司ケ谷墓地に走らせ先考の墓を拝す」
大正13年1月2日、「晴れて好き日なり。お榮を伴ひ先考の墓を拝す」
大正15年1月1日、「昼餔の後、霊南阪下より自働車を買ひ雑司ケ谷墓地に往きて先考の墓を拝す」
はぼ毎年のように正月には雑司ケ谷の父親の墓を訪ねている。
昭和4年1月2日、「午下寒風を冒して雑司ケ谷墓地に往き先考の墓を拝す」とある。寒さのなか50歳を過ぎ、健康とはいえない荷風が、正月の墓参だけは欠かさない。


大正11年7月9日鴎外が死去したあとは向島の弘福寺の鴎外の墓(大震災後、三鷹の禅林寺に移転)もよく訪ねるようになる。
大正13年2月16日、「弘福寺に往き、鴎外先生の墓を拝す」
昭和2年7月9日、「午後銀座太牙に立寄り、自働車にて濹上弘福寺に赴き森先生の基を掃ふ」

「日和下駄」には墓地の記述はないが、大正5年の小説「花瓶」には、散策の場所としての墓地の魅力に惹かれていたことがうかがえる。
主人公、小石川金剛坂上の隠宅に住む高等遊民の政吉は、元芸者の妻お房を連れて、深川の霊巌寺の菩提所へ出かける。政吉は、お房に、境内にある「故白河城主樂翁公の墓」を案内しながら、
「お房、私はお墓参が一番好きだよ。静で何となく気が落ちつくから。お前、くたぶれたら門の側の花屋で休んでゐておくれ。私はついでだから、もすこしお墓を見て歩く」
という。主人公にとって、古い寺の墓地は、静かな過去追慕の聖地である。

昭和6年の小説「あぢさゐ」。
墓地への愛着が現れている。冒頭、「わたし」が、三味線の宗吉に、駒込あたりのある寺の門内で出会い、宗吉から、「先生の御菩提所もこちらなんで御在ますか」とたずねられる。「わたし」は、
「なに。何でもないんだがね。近頃はだんだん年はとるし、物は高くなるし、どこへ行っても面白くないことづくめだからね。退屈しのぎに時々むかしの人のお墓をさがしあるいてゐるんだよ」
と答える。
宗吉は、これを聞いて「見ぬ世の友をしのぶといふわけで」と受ける。
これは、「礫川徜徉記」の「古墳の苔を掃って、見ざりし世の人を憶ふ時なり」に重なっている。

戦時下に書かれた小説「浮沈」のさだ子は、死んだ夫の命日に毎年怠らずに栃木県の家から東京の青山墓地まで墓参りに来る。
戦後の短篇「吾妻橋」の私娼道子は、松戸の寺に葬られた母親の墓を探しに出かけたために警察の手入れを逃れることが山来、「やっぱりお寺の坊さんの言ふ通りだ。親孝行してゐると悪い災難にかゝらないで運が好くなるツて、全くだよ」と喜ぶ。
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