安元2(1176)
この年
・この頃仏御前現れ、祗王ら嵯峨野に隠棲
翌年、仏御前もまた清盛の許を離れ出家して、祇王一家(母、妹の祇女)と4人で暮らす。
(伝承、説話としても、この頃と想定できる)
1月
・平経正、皇太后宮亮・従四位上となる。
1月23日
・この年(安元2年(1176))、後白河法皇は50歳になり、正月からの行事はその賀のことで一色に染まった。正月23日、法皇が御賀(おんが)の舞を覧じ、2月5日に二度目の御賀の舞を覧じている。21日には御賀の試楽があり、これは「聖代の佳猷、希代の壮観」と称される。
3月4日
・~6日、後白河法皇五十賀。平教盛(清盛弟)、宴遊用船を造営。平維盛、少将藤原隆房と青海波を舞う。
4日、法皇の五十の算を賀す宴と儀式が法住寺殿において行われ、舞と楽が披露された。
翌日、建春門院と中宮の女房、公卿・殿上人がそれぞれ船に乗っての管弦の興があり、蹴鞠も行われた。
6日、御賀の後宴があり、天皇の笛は聞く者を感嘆させずにはいられなかったという。この御賀の儀式は藤原隆房の『安元御賀記』にくわしく記されており、その末尾で「いぬる年よりけふに至るまで世のいとなみ事ゆへなく、雨風のわづらひなくて過ぬる事、高きいやしき悦びおもはぬ人なしとなむ聞侍りし」と記し、見事な儀式が無事終了したことを称えている。
後宴が終わった後、法皇は清盛に院宣を送った。御賀の担当公卿で隆房の父の中宮大夫隆季を使者に送り、「此度の御賀に一家の上達部(かんだちめ)、殿上人、行事につけても、殊(こと)にすぐれたる事おはし。朝家(ちようか)の御かざりと見ゆるぞ。殊(こと)に悦びおぼしめすよしおはす」と、平家の一家の人々の働きに感謝すると、清盛は使者に金100両を入れた白銀の箱を礼に送っている。それを聞いた法皇は「物よかりける主かな」と語ったという。この時の平家一門の動きを描いた『平家公達草紙』は後宴の青海波(せいがいは)の装束見の際に、右大将重盛が中納言宗盛以下時忠・頼盛・教盛・知盛・重衡・資盛・清経・忠房・通盛・経盛らの一家の人々を引き連れていたさまや勢威は特別なものだったと記している。
維盛の人生の絶頂
三代続いた五〇の賀宴のクライマックスこそ、三日目の後宴における青海波(せいかいは)の舞である。青海波は舞楽の曲名で、盤渉調(ばんしきちょう、雅楽の六調子の一、西洋音楽のロ短調に相当)の曲、輪台(りんだい)という序と青海波の破(は、中間の楽章)の二楽章からなる。どちらも中国西域の地名を楽名に冠したもので、青海(現中国青海省東部)より唐に渡り、さらに我が国に伝わる。平安前期に改修、その後も多くの補修がほどこされ、艶麗な純日本風の舞楽になった。
青海波には、さまざま特殊な演出があった。垣代(かいしろ)もその一つ。反鼻(へんび)という木片を打ち鳴らす人びとが、舞人と同じ装束で、垣のように舞人を囲んで立ち並ぶことをいい、総勢四〇人という大がかりなもの。舞を専門とする官人だけでは足りないので、左右近衛府官人・滝口・北面の武士たちを参加させたが、院政期にはとくに選ばれた公卿の子弟が、事前の教習を経て臨んだ。
楽屋から出た舞人以下の行列は、南面する天皇や院らの座前を通って、庭上を左回りに円を措くように廻る(大輪おおわ)。次いで東西に二つの輪をつくる(小輪こわ)。輪中で舞人が装束を改め、つぎに輪を解き垣代が一列に並ぶ。そこから四人出て序の輪台を舞い、次いで二人出て破の青海波を舞う(図6参照)。後者の西の舞人が上席の維盛、東の次席が右少将成宗(なりむね、成親の次男)である。
権亮少将(維盛)、右の袖を肩脱ぐ。海浦(かいぶ、大波・魚・貝など海辺のさまを表す文様)の半臂(はんぴ、束帯の時、袍(ほう)と下襲(したがさね)との間に着る胴着。舞楽装束のものは狭い袖をつける)。螺鈿(らでん)の細太刀、紺地の水の紋の平緒(ひらお、儀仗(ぎじょう)の太刀を佩用(はいよう)する時に使用する、幅広で平たく編んだ組紐)、桜萌葱(もえぎ)の衣(きぬ、衣冠の装束)、山吹の下襲、やなぐゐを解きて老懸(おいかけ、武官の冠の左右につけた飾り。馬の尾を用い、一端を編んで扇形に開いたもの)を懸く。山端近き入日の影に、御前の庭の砂子(すなご)ども白く、心地よげなる上に、花の白雪空に時雨(しぐれ)て散りまがふ程、物の音もいとどもてはやされたるに、青海波の花やかに舞出たる様、維盛の朝臣の足踏み、袖振る程、世の景気(けいき)、入日の影にもてはやされたる。似るものなく清ら也。(『安元御賀記(あんげんおんがのき)』が語る維盛の晴れ姿)
賛美は維盛一人に寄せられただけではない。垣代には知盛(清盛の四男)・重衡・通盛(みちもり、教盛の子)・清経・保盛(頼盛の子)ら平家公達が加わり、楽屋入りには重盛が、左衛門督宗盛(清盛の三男)・検非違使別当時忠・右兵衛督頼盛・参議教盛・従三位藤原信隆(清盛の婿)ら一族の公卿を引き連れた。居並ぶ平家公達の華やかで盛んなさまは、維盛の舞を引き立て、相乗効果で平家全盛を印象づけ、青海波舞が平家から後白河への献呈品であることを誇示した。
この日自らも琵琶を弾じた兼実の日記には、維盛や平家の人びとへのほめ言葉は見えない。しかしその実、維盛の舞に深く感銘を覚えたことが、一カ月半前の正月二三日、院の御前での試楽への感想にうかがえる。維盛はその時も成宗と舞ったのだが、「相替り出で舞ふ、ともにもって優美なり、就中(なかんづく)維盛は容顔美麗、尤も歎美するに足る」と書かざるをえず、また本番の舞でも「皆試楽の如し」とある(『玉葉』)。
光源氏の再来
この日、維盛は貴族社会で光源氏の再来との評価をえた。建礼門院徳子に仕えた右京大夫(うきょうのだいぶ)と呼ばれた女性の家集に、『建礼門院右京大夫集』(以下『右京大夫集』と略記)がある。愛人であった資盛の忘れえぬ思い出を軸に、率直に心情を述べた歌が多い。長文の詞書と歌とが結びつき、女房日記的な性格を有する個性的な家集である。その二一五・二一六番歌の詞書によれば、維盛の青海波を舞う姿を、人びとが「光源氏の例も思ひ出でらるる」と賞賛し、光源氏を思い浮かべて「花のにはひもげにけおされぬべく(花の色つやもこの君の美しさに圧倒されてしまいそうだ)」などと取りざたしたという。
(略)
光源氏の例を想起したという前記の印象も決して突飛なものではない。そもそも白河・鳥羽・後白河三上皇それぞれの五〇賀における、天皇の行幸と青海波の上演、その演出法は、いずれも『源氏物語』の紅葉賀巻が先例になり、それをいやが上にも盛大・優美に再現するものだった。というより、この演目の上演記録を見ても、長寿の祝いという場で上演するようになるのは、すべて『源氏物語』以後、白河のそれが最初だった。
(略)
右京大夫をはじめ人びとが維盛の舞に感嘆したのは、彼の舞が見事だったからに違いないだろう。加えて『源氏物語』の紅葉賀をなぞっていることを、みながあらかじめ承知していたからこそ、その感興、効果はいやました。
(略)
(「平家の群像」)
3月6日
・近衛基通、ニ位・左中将となる。
3月9日
・後白河院・建春門院、有馬温泉へ御幸。
3月30日
・藤原範季、藤原秀衡に代って鎮守府将軍となる。 陸奥へ下向。
4月8日
・大地震。
4月27日
・後白河法皇、延暦寺へ御幸、天台座主明雲を戒師に菩薩戒受ける。関白藤原基房・内大臣師長以下が供奉。
さらに法皇は、仏業へ心を入れることへの熱心のあまりか、園城寺の僧正公顕からも秘密灌頂を受けようとしたが、これは延暦寺の妨げがあって取り止めになったといわれる。
つづく
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