安元3/治承元(1177)
7月2日
・藤原成親、備前の配所に到着。
9日、没。
『愚管抄』は、
備前国ヘヤリテ、七日バカリ物ヲクハセテ後、サウナクヨキ酒ヲ飲マセナドシテヤガテ死亡シテケル。
と、酒に毒を入れて謀殺したことを匂わせている。
平重盛、東山の麓に48間精舎を建てる。1間毎に灯籠をつけ、毎月14、15日に1間に6人づつ計288人の若い女房に念仏を唱えさせる。灯籠大臣と呼ばれる。
7月29日
・故崇徳法皇(讃岐院)に崇徳院の号を贈り、故藤原頼長に正一位太政大臣を追贈。天下不静につき怨霊を鎮めるため。山門強訴・大火・鹿ヵ谷事件などの天下の物騒が保元の乱による怨霊によるものであると見なされた。
8月4日
・「治承」に改元。4月28日の大火で。
8月22日
・後白河法皇(51)、崇徳院供養のために成勝寺に法華八講を修す
9月
・山門滅亡 堂衆合戦(どうじゅかっせん、「平家物語」巻2)
9月4日、後白河院は三井寺で灌頂の儀式を行う予定であったが、山門衆徒が騒ぎ中止。その後、天王寺に御幸し五智光院を建て伝法・灌頂を行う。比叡山では度々堂衆・学生間で合戦があり、堂衆が戦いに勝つようになったので衆徒が朝廷・武家に知らせ訴える。清盛は院宣を受け、湯浅権守宗重以下兵2千余を衆徒につけ堂衆を攻める。20日、衆徒3千・兵2千で再度攻めたるが破れる。
10月
・宗盛が養女としていた藤原隆房の女子と兼実の息良通(よしみち)との婚姻が画策される。兼実は「従へば家を堕(お)とすの謡あり。背けば身を失う恐れあり」と、進退が谷まったと記す。
10月11日
・厳島神社での清盛の千僧供養。13日、宗盛によって臨時祭が行われた後、万灯会(ばんとうえ)が行われ、14日に千僧供養、15日に一切経会(いつさいきようえ)が行われた(「厳島神社文書」)。
10月27日
・大地震。東大寺の大鐘が振り落とされる。
11月4日
・小督局(21)、高倉天皇第2皇女範子内親王を出産。小督、後に出家。
11月23日
・石清水別当慶清(成清の甥)、筑前の宇美宮・長野庄・田富庄、阿波の堀江庄、備前の肥土庄の石清水八幡宮寺の荘園の領有に就いて後白河院院庁に訴え出る。別当慶清と権別当成清の所有する譲状の食い違いについて院庁の判断を仰ぐため。
翌治承2年(1178)6月12日院庁裁定が下り別当慶清が勝訴。敗訴した成清は、院庁下文で虚偽を以て荘園を横領しようとしたと判定され、面目を失い石清水において孤立する事になる(しかしまだ宇佐弥勒寺や男山宝塔院の広大な荘園を支配)。
12月
・京都に強盗横行。
12月17日
・清盛によって完成した蓮華王院五重塔の落慶供養。後白河法皇・高倉天皇行幸。
12月24日
・彗星出現。
12月27日
・徳大寺大納言藤原実定(39)、左大将に任命。
徳大寺厳島詣(とくだいじのいつくしまもうで、「平家物語」巻2):
徳大寺の大納言実定は、清盛の次男宗盛に大将の官職を越され閉じ籠る。藤蔵大夫重兼という諸大夫が、清盛の尊敬する厳島詣を絡める策をもって、徳大寺を左大臣にさせることに成功。
つづく
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