〈藤原定家の時代019〉承安2(1172)
この年
・この頃から、清盛の子、重盛と宗盛の力関係の変化が顕在化する。
宗盛と重盛の兄弟は、そして頼盛・清盛、清経・維盛の兄弟も、当時の用語でいう「母太郎」と「父太郎」の関係にあった。「母太郎」はその家の母、つまり現在の嫡妻との間に生まれた長男、これに対し「父太郎」は父が妻や妾・召人を問わず生ませた長男の意味だろう。重盛の母は右近将監高階基章の娘である。右近将監は六位相当の官で、その娘なら鳥羽院政下でめきめき頭角を現しつつあった伊勢平氏の未来の棟梁の妻には釣りあわない。召人というべきところであるが、高階基章の娘は、第一章で述べたように、摂関家の大殿忠実が基章の妻と関係して生ませた不義の子だったらしい。加えて重盛は平治の乱で華々しい活躍をした。
こうしたことが、清盛が自分とよく似た出生事情をもつ「父太郎」の重盛を、嫡男として遇した理由であろう。しかし時が経ち庇護者である清盛が福原に去ると、家の後継者決定に強い発言権をもつ嫡妻時子らの勢力に支援された宗盛が、じりじりと重盛に肉薄し嫡子の地位をうかがうようになった。とくに彼が叔母の滋子に密着していた点が大きいだろう。宗盛は彼女が女御の時は家司(けいし、三位以上の家の事務をつかさどった職員)として、建春門院になってからは院司としてぴったり寄り添っていた。しかも彼の妻は滋子と同母の妹清子である。清子は憲仁親王の乳母として宮中に入り、親王が即位した年、高級女官の典侍(ないしのすけ)の官についた。
重盛と宗盛の力関係の変化が顕在化するのは、承安二(一一七二)年ごろと考えられる。徳子入内の翌年で、宗盛と清子の間に生まれた嫡子清宗が禁色を許されている。わずか三歳である。同時期の摂関家の子弟が一〇歳前後だから、それをすらはるかに上回る早さだった(清宗の昇叙については三七頁表2参照)。他方、重盛の嫡子清経は、六年後の治承二年、一六歳になってやつと禁色を許されている。(「平家の群像」)
1月19日
・高倉天皇、父後白河法皇の院御所(法住寺殿)に年頭恒例の行幸。
重盛は天皇の食事の給仕を務めている。普通は蔵人や女房が奉仕する役である。その後御遊(ぎょゆう、宮中の音楽の遊び)があって、拍子・琵琶・筝・笛・篳篥(ひちりき)など管弦の楽が演奏された。維盛は芸能を買われて召しだされた一人として、付歌(管弦の楽につけ添えて歌う歌)を歌っている。(「平家の群像」)
2月
・~12月に「歌仙落書」成立。編著者未詳(藤原教長か)。
当代歌人の中から、公通・実定・実房・公光・俊成・重家・清輔・頼政・資隆・敦頼・師光・隆信・定長・俊恵・登蓮・寂超・寂然・讃岐・小侍従・大輔の20人を選び、その風体を古今集仮名序の六歌仙評にならって批評し、例歌を挙げる。
・平清盛、厳島参詣し、御衣・舎利を奉納。
2月2日
・女御徳子が入内の際に使った衣が厳島神社に奉納される(「厳島神社文書」)。
2月3日
・建春門院(32)御願の最勝光院の棟上。法住寺殿に付属する地。諸国からはこの御願寺造営のために重い課役が賦課されたという訴えが相次いだ(『平安遺文」)。
2月10日
・女御徳子(平清盛娘)、高倉天皇の中宮となる。中宮大夫藤原隆季。権大夫平時忠。亮平重衡。権亮平維盛。
女御の入内から中宮冊命(さくめい)に至るまでの行事において目立った人物として、『玉葉』は左大臣の藤原経宗と、重盛・宗盛・時忠らの名を特記しており、入内の行事は彼らが仕切っていたという。重盛はこれに備えて12月8日に再び大納言に復帰している。
維盛は以降、権亮少将の呼び名で呼ばれる。重衡は2歳年上の叔父であり、彼との公的な接触は、中宮職での同僚という形で始まる。
2月10日
・藤原俊成、皇后宮大夫を改め、皇太后宮大夫となる。皇后藤原忻子を皇太后とする。
2月12日
・中宮徳子の外出時の警固役を務めることになる諸衛府の次官を招いた酒宴。
主賓に酒盃を勧める勧盃(けんぱい)役を務めたのは、中宮権亮の維盛で、故実先例作法にうるさい九条兼実が「年少と雖も(十四と云々)作法優美、人々感歎」と手放しでほめている(『玉葉』)。
(「平家の群像」)
2月17日
・この日、仁王会(にんのうえ)。天皇代一度の仁王会ということで諸国の神社50社に仏舎利が奉納され、厳島神社にも奉納されている。
2月30日
・藤原定家(11)の伯父快修(73)、法勝寺別当を辞任。6月12日、没。
3月15日
・平清盛(55)、摂津国福原に後白河法皇・建春門院を迎えて千僧供養
この年の供養については、その盛儀が『古今著聞集』にくわしく記され、また導師(どうし)の法印公顕(ほういんこうけん)が僧正(そうじよう)に任じられたことなどもあって、以後の福原での恒例の千僧供養の先例となった。
供養は15日から17日までの3日間かけて行われ、持経者1千人の僧による法華経の転読では、経以下の布施が諸院宮から上達部(かんだちめ)・殿上人・北面に至るまで進めることが命じられ、法皇はその一口を負担したばかりでなく、法印3人の次に行道(ぎようどう)をしたともいう。諸国の「土民」が結縁(けちえん)して針や餅などを差し出し、浜に仮屋が作られて道場とされ、48壇の阿弥陀護摩もあって、法皇はそのなかにも加わったという。
持経者とは法華経の読詞(どくじゆ)に堪能な人のことで、法皇も持経者であったことを『愚管抄』は記している。持経の僧を千人も集めるのは容易ではなく、平氏の家人(けにん)を通じて諸国の一宮(いちのみや)や地方寺院の僧から広く集めている。承安2年3月18日に厳島神主の佐伯景弘の記した10人の持経者の読んだ経巻の報告書によれば、そこに見える持経者は河内国の七つの寺院の僧と厳島の住僧であった(『平安遺文』)。
3月19日
・藤原清輔、尚歯会を開く。
3月29日
・平通盛、正四位下に叙任。
4月23日
・賀茂祭にて平知盛(22)が近衛使、平重衡(17)が中宮使を務める。
4月28日
・新田義重、所領を嫡子新田義兼に譲る。
4月29日
・地震あり。
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