安元3/治承元(1177)
・この年、源頼朝と北条政子、結婚(「大日本史」)。
「曾我物語」にある逸話:
政子21歳の年、腹違いの妹が、高い山に登り、月日を左右の袂に納め、橘の実が3つ生った枝を髪に挿すという夢をことを、政子に話す。政子は、それが極めてめでたい夢と知りながら、妹にはそれは恐ろしい夢なので、悪い夢を転じ変えねばならないと言いくるめ、その夢を買い取る。その後、頼朝が、時政の娘(政子の妹)に宛てて艶書を遣わすと、使の安達盛長が姉の政子宛に書き換えて渡し、政子と頼朝との縁が始まる。これが夢の予示であった。しかし、父の時政が、大番から戻り、これを知る。時政は、かつて先祖の平直方が源頼義を婿にとって繁栄した縁を思い、悪いこととは思わなかったが、平家の侍の山木兼隆に政子を嫁にやる約束をしており、違約が引起す問題を考え、政子を山木兼隆の許に嫁がせる。頼朝を思う政子は、一夜も明かさずに兼隆のところから逃げ出し、深い山路を越えて頼朝の許へと赴き、添い遂げる、という。
頼朝は政子を知る前、伊東祐親の娘(八重姫)と、祐親の在京中に親しくなり、子供をもうけるが、平氏方の祐親はこれに激怒し、仲を裂き、子供をも殺す。
頼朝と政子の間に4人の子女(『吾妻鏡』所載の死去の記年から推算)
①大姫;治承2~3年(1178~79)生(政子22~23歳)
②頼家;寿永元年(1182)生(政子26歳)
③乙姫;文治2年(1186)生(政子30歳)
④実朝;建久3年(1192)生(政子36歳)
頼朝は政子と結婚後、政子が頼家を懐妊中に愛妾亀前(かめのまえ)を中原光家宅に囲ったり、新田義重の娘に艶書を通わせる。亀前の件では、政子は、時政の後妻牧の方からこれを聞き憤慨し、亀前が隠れている伏見冠者広綱の家に牧の方の父(兄とも)宗親を派遣して辱めを与える。頼朝は、宗親を譴責し、頼朝と時政との間が険悪になる。義重の娘の件は、政子の聞こえを心配した義重が慌てて娘を嫁にやる。
1月
・甲冑に身を固めた白山側の衆徒、佐羅宮(白山七社の一つ)の神輿を先頭に北陸道を上って延暦寺へ向かう。
1月24日
・内大臣藤原師長(40)、太政大臣に昇任(3月)するため左大将を辞任。
平重盛(41)が左大将(藤原実定・藤原兼雅・藤原成親が望んでいたが)、平宗盛(30)が右大将に任命(平氏の二人の近衛の大将)。
平時忠、左衛門督となる。
前年末の除目では、院近臣が平氏を凌いだが、今回は平氏が院近臣を凌ぐことになった。
・平経盛が正三位、平知盛が従三位・非参議となる。
時子の次男知盛は、仁平二(一一五二)年生まれ。平治元(一一五九)年従五位下、翌永暦元(一一六〇)年武蔵守になり、さらに再任した。以後左兵衛権佐・左近衛少将を経て仁安三(一一六八)年には左近衛権中将に進み、正四位下に達する。世間からは「入道相国(清盛)最愛の息子」とみなされた(『玉葉』安元二年一二月五日条)。安元三(一一七七)年正月、中将のまま従三位に叙せられる。四位相当官である近衛中将で三位に昇った人は、三位 中将(さんい(み)のちゅうじょう)と呼ばれる。以前は中将が二位、三位になると、摂関家の子息もしくは一世源氏のような特別の存在でなければ、中将から退くものとされたが、白河院政期以降になると例外が増えている。知盛はさらに右兵衛督・左兵衛督を歴任、武官中心の官歴を送った。
治承四年以降は武蔵の知行国主となり高倉院の御厩別当を務める。武蔵は相模と並んで東国武士の本場とでもいうべき国であり、国内の武士の組織化も進めたらしく、彼の御家人には有名な熊谷直美(くまがいなおざね)の名も見える。御厩別当は院の車・馬牛を管理する役であるから、これもおのずから軍事に関係深いポストであった。寿永元(一一八二)年には権中納言・従二位に進んでいる。
(「平家の群像」)
1月27日
・大地震。東大寺の鐘と大仏螺髪が落ちる。
2月3日
・宗盛の拝賀式。殿上人10人、蔵人五位6人が前駆をする。後白河がとくに催促して遣わしたという。
2月5日
・涌泉寺衆徒ら、一味神水の儀式で神前に誓い、「悪魔降伏・賞罰厳重の大明神」本地不動明王の白山佐羅早松神社の神輿を担い、強訴の為加賀出発。加賀国庁の官人達は、後を追い引き止め説得するが、容れず。白山神輿は、越前を通過して敦賀に到着した時点で、金ヶ崎の観音堂に奉安して叡山の出方を待つ。
敦賀に留まる白山衆徒の噂は都に届き、熊野参詣から戻った後白河院は、院宣を叡山に下し白山衆徒の入京阻止を命じる。
2月半ば、叡山大衆300余、敦賀の白山衆徒の許へ叡山の下文(後白河院が熊野参詣で訴えが滞っている、天台座主も度々訴えている、という言い訳)を届ける。白山衆徒は、返事を認め、智積・覚明・仏光ら法師6人を叡山に上らせる。
2月22日
・平家の御恩給付方式
平家が自らの荘園内で荘官(荘園の現地管理者)の職(しき、職務およびそれにともなう収益権)を給与する、または平家が推挙して他の貴族の荘園内の職をえさせる、という二つの御恩給付方式がある。これは、鎌倉幕府の地頭制に先行する平家時代の地頭である。
後者の具体例として、『顕広王記』中の「今戌(こんいぬ)(の刻)、伊与庄下司(げし)の下文、三位中将(知盛)に献じ了(おは)んぬ、これ吹挙せられるによりてなり」という記事がある(安元3年2月22日条)。
神祇行政の責任者である顕広王という貴族は、ある人物を自分が伊予国に持っていた荘園の下司(上級の荘官で、年貢など各種貢納物の徴収・上納にあたった)に任命するという下文(命令文書、この場合辞令)を作成し、知盛に贈る。知盛が自分の家人を推挙していた。下文が、知盛に献上され、知盛から家人に手交されるので、知盛自身が任命したのと同じ効果が生ずる。知盛の要望に応え、かつ平家御家人の武力を利用すれば、荘園領主の命令に従わない者を押さえつけられ、荘園の支配秩序も安定するから、顕広王側もメリットがある。
『吾妻鏡』(文治元年12月21日条)にも平家時代の給付方式に触れた箇所がある
「前々(さきざき)地頭と称する者は、多分平家の家人なり、これ朝恩にあらず、あるいは平家の領内その号を授けてこれを補し置き、あるいは国司領家、私の芳志(好意)としてその庄園に定め補す、また本主の命に違背せしむるの時はこれを改替せり、しかるに平家零落の刻(とき)、かの家人の知行の跡(遺産)たるによりて、没官(没収)に入れられ畢(おは)んぬ」
また、時期は不詳だが、高野山菩提心院領備前国香登(かがと)荘(現岡山県備前市)では、業資(なりすけ)なる人物が「平家執権の時、重衡卿に属し、妄りに濫行(らんぎょう)を成すの刻、理不尽をもって横しまに下司に補」された(『鎌倉遺文』687号)とある。重衡家人の業資が、主人の威を借りてむやみに乱暴を働き、さらに無法にも香登荘の下司の地位についたと非難されている。業資の違法行為や下司職就任の経緯は、鎌倉時代に入って、彼の下司職を解任するための理由づけとして、誇張されている可能性もあり、正確なところは不明だが、これもおそらくは重衡が口を利いて、自分の家人を下司に押しこんだケースだろう。
つづく
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