2022年6月14日火曜日

〈藤原定家の時代025〉承安5/安元元(1175)1~6月 法然廻心 鴨長明(21)後任争いに敗北 疫病流行 定家(14)赤斑瘡 高倉天皇(15)疱瘡 「少将維盛(重盛嫡子)、衆人之中、容顔第一也」

 



承安5/安元元(1175)

この年

・この年、法然は廻心、浄土宗を立て専修念仏の教化に努める。

顕密仏教は「現世安穏・後世善処」を標榜、善根を積み重ねることで往生できると説く。法然は諸行往生を否定、法華経読誦や造寺造塔・田畠寄進など念仏以外の全ての行為から往生行としての価値を剥奪、それら一切を無価値と断じる。その結果、持戒の高僧や寺社を嘲笑する風潮が広まり、顕密仏教の権威を大きく揺さぶる。

「上人聖道諸宗の教門にあきらかなりしかば、法相三論の碩徳、面々にその義解を感じ、天台華厳の明匠、一々にかの宏才をほむ。しかれどもなほ出離の道にわずらひて、心身やすからず、順次解説の要路をしらんために、一切経をひらき見たまふこと五返なり。一代の教迹につきて、つらつら思惟したまふに、かれもかたく、これもかたし。しかるに恵心の往生要集、もはら善導和尚の釈義をもて指南としれ、これにつきてひらき見給に、彼の釈には乱想の凡夫、称名の行によりて、順次に浄土に生すべきむねを判じて、凡夫の出離をたやすくすゝめられたり。蔵経披覧のたびに、これをいかゞふといへども、とりわき見給こと三返、つゐに一心専念弥陀名号、行住座臥問時節久近、念々不捨者、是名正定之業、順彼仏願故の分にいたりて、末世の凡夫弥陀の名号を称ぜば、かの仏の願に乗じて、たしかに往生をうべかりけりといふことはりを、おもひさだめ給ぬ。これによりて、承安五年の春、生年四十三。たちどころに余行してゝ、一向に念仏に帰し給ひにけり」(「法然上人絵伝」)。

・賀茂御祖神社の禰宜鴨祐季、延暦寺と土地争い。祐季失脚。長明(21)、鴨祐兼との後任争いに敗北。

1月4日

・高倉天皇、父後白河院の御所法住寺殿へ朝覲行幸(天皇が父母の御所に行幸する事)、初めて笛を吹き、右大臣九条兼実は琵琶を奏す。正二位前大納言藤原実定(この時は散位)、これを讃えて歌を詠む。天皇の笛の師の藤原実国(さねくに)が正二位に叙される。

1月9日

・地震あり。

2月

・この頃から疫病流行

・藤原定家(14)、赤斑瘡を病む。重篤。

2月22日

・地震あり。

2月27日

・久我(源)雅通(58)、没。正二位内大臣、右近衛大将を兼ねる。1男は土御門内大臣通親。

久我雅通:雅定の後継、雅定の養子で雅定の兄顕通の子。永治元(1141)年12月、近衛天皇の生母藤原得子(美福門院)の立后に際し皇后宮権亮に任ぜられて以来、長く得子に近侍、また、得子の従兄で、鳥羽上皇の有力近臣の藤原家成の妹を娶り家成に親近。仁安3(1168)年正二位内大臣に昇り、右近衛大将を兼ねる。

3月

・平宗盛、厳島鳥居の額担当後方弥山水精寺に祈祷依頼・寺領寄進。子々孫々の官位官爵栄華栄耀を祈願。

3月3日

・高倉天皇(15)、疱瘡を病む。

3月9日

・平時子(51、清盛の妻)、西八条邸に八条朱雀堂建立(八条北壬生東)供養。時子が邸主人となる。

供養には疱瘡のために左大将師長、検非違使別当時忠、大納言藤原実房、中納言藤原宗家、花山院兼雅は欠席。後白河法皇・建春門院・中宮・白河殿盛子が臨幸し、公卿29人が列席。御堂の名は常光明院と命名され、導師は仁和寺の守覚法親王が勤めた。出席した右大臣兼実は、「希代また希、珍重また珍重」と記した後、末世のことであり、弾指すべきことだと批判を加えている。

一方で、兼実は3月1日に清盛の使者の知盛から御堂の額を依頼されて、供養の前日に時子に届けている。10日になると、その額の字が神妙であったと人々が噂していたことや、清盛も感嘆していたことなどを日記に記している。兼実は厳島神社の鳥居の額も7月13日に宗盛から依頼されて引き受けている。

4月10日

・石清水臨時祭、従四位下藤原隆信朝臣が陪従を務める。

5月22日

・伊賀の名張郡司源俊方、興福寺と結び東大寺領黒田荘に乱入。

5月27日

・最勝光院で建春門院(平滋子)百日御懺法(せんぽう、(せんぽう、自分の犯した戒律上の罪を告白して懺悔する仏教儀式))結願。彼女の持仏堂である東山の最勝光院内小御堂にはあまたの公卿貴族が参集したが、「少将維盛(重盛嫡子)、衆人之中、容顔第一也」(「玉葉」同日条)。

後白河法皇(49)、蓮華王院において百日を期し、毎日米三十石を窮民に施与。


つづく



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