承安3(1173)
この年
・日宋貿易の根拠の摂津八部郡大輪田泊(神戸港西部)に防波堤(築島)造営決定、田口成良(阿波重能)に奉行を命ずる。
西・南風は和田岬で防げるが、東南風には無防備。経文を書写した石で築いた為、経ヶ島と呼ばれる。承安3年中に竣工。工事難航するが、平清盛、人柱案を却下、一切経を海中へ投じる。
『延慶本平家物語』は「太政入道の多くの大善を修(ず)せられし中にも、福原の経島(きようじま)つかれたりし事こそ人のし態(わざ)とはおぼへず不思議なれ」と述べて、次のように記す。
彼の海は泊のなくて風と波と立相て通る船のたうれ乗人のしぬる事昔よりたへず怖き渡なりと申ければ、入道聞給て阿波民部成良(あわのみんぶしげよし)に仰て謀を廻て人を勧て、去じ承安三年つきはじめたりしを、次年、風に打失れて石の面に一切経(いつさいきよう)を書て船に入ていくらと云事もなくて沈められにけり。さてこそ此島をば経島とは名付られけり。
清盛の家人の阿波民部成良は阿波の豪族で、のちに屋島内裏を築いたことでも知られる阿波水軍の頭領。
治承4年(1180)に清盛が兵庫島の修造を願い出た解状に、清盛の出家後に「一には、諸国の欺きを救はんがために、一には諸人の怖れを除かんがために、殊(こと)に私力を励まし、新島を築く」(『山槐記」)と、新島を築いたとあり、承安3年頃の着工と見られる。すでにこの年には日宋貿易も本格化していた。
中国から入ってきた唐物は、福原での法会出席の僧らへの引出物とされたり、珍奇な物、貴重な宝物は法皇や天皇に献上された。安元3年(1177)3月の千僧供養では唐物が引出物とされている。
・この頃、祗王、平清盛に寵愛される
1月8日
・明恵上人(高弁)、紀州在田郡石垣庄吉原村歓喜寺に誕生(和歌山県有田郡金屋町大字歓喜寺)。
父:高倉院の武者所平重国、母:湯浅権守宗重第4女。幼少時に父母に死別。9歳で高雄の上覚上人の弟子となる。34歳、後鳥羽上皇院宣を以て栂尾に高山寺を興す。
3月
・この月、院北面下臈の西光が建てた浄妙寺堂に法皇が臨幸すると、そこでは舞楽があった。
3月3日
・宋国よりの貢物に返牒を送ることを詮議。13日、後白河法皇(47)、清盛に命じて宋に返牒を送らせる。
清盛の命を受けた左大臣藤原経宗の計らいにより、返牒が出され、答進物が送られる。返牒は文章博士の藤原永範(ながのり)が草案を作成し、能書(のうしよ)の藤原教長(のりなが)が清書したが、その内容は進物が極めて美麗であることを称えたものであり、返礼として太政(だいじよう)天皇(法皇)からは色革30枚を納めた蒔絵厨子と砂金100両を納めた手箱一合、清盛からは剣一腰と物具の入った手箱一合が送られることになったという。
これらの話を聞いた九条兼実は、蒔絵厨子に色革を納めるとはこれまでにないことで、刀剣などの武勇の具を国外に出すこともよくないことであり、そもそもこうした大事を人々に諮らずに決定するのが問題であって、さらに仏陀の道に入った法皇を太政天皇と称するとは何事かと、強く批判を加えている。
その直後のこと、恒例となった福原での護摩や法華経供養を行っていた最中に、宋朝の使者が訪れたが、清盛が面会せずに人を会わせたことから、唐人は怒って帰ってしまったという事件が起きている。これにも『玉葉』は批判的であったが、続報がないところを見ると、とくに問題は起きなかったようである。
輸出品:金・砂金・真珠・水銀・硫黄・日本刀・蒔絵・螺鈿・檜扇・屏風などの美術工芸品・周防などの生産した松・檜の木材(12世紀後半から多くなる)。
3月11日
・この頃、京では強盗が頻発し、この日、検非違使大江遠業(とうなり)の捕まえた強盗7人を法皇が桟敷で見物。
4月1日
・浄土真宗の開祖となる親鸞、誕生。
4月12日
・院御所七条殿東南隅の萱御所が炎上。
4月23日
・賀茂祭にて平維盛(16)が中宮使を務める。
4月29日
・高尾上人文覚、後白河法皇と側近が小宴会の蹴鞠中に、神護寺再建の勧進帳をもって院御所法住寺殿に乱入。法皇に要求を付きつけ、聞き入れられないとみるや天皇家を誹謗、北面の武士に逮捕される。
5月16日、後白河法皇誹謗の罪により伊豆へ配流。5年間。奈古屋(伊豆韮山那古屋)に軟禁。源頼朝の居る蛭ヶ島と半里の距離。治承2年(1178)勅勘をとかれ帰京、後高雄に住む。
つづく
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