安元3/治承元(1177)
3月
・藤原定家(16)、皰瘡を病む。
3月1日
・平重衡・藤原隆房、盗賊のまねで中宮の局達を驚かし、翌日盗品を返しに行く。高倉天皇・平維盛も加担。
『平家公達草紙』の「公達の盗人」の段では、安元三(一一七七)年三月一日のころ、平家一門の公達が内裏でつれづれをもてあましていた。重衡が、盗人のまねをして中宮の局(つぼね)に押し入り、女房たちの衣類を奪って驚かす趣向を思いつき、天皇もおもしろがって実行させる。その夜天皇が中宮の局に渡ったので、一同おかしさをこらえてお供し、翌朝、盗人から取り返したということにして奪った衣類を返した。しばらくたった後で、天皇が種明かしをしたので、女房たちは重衡をうらんだという話がある。これは『右京大夫集』の鬼の話にヒントをえた創作かもしれないが、人物像にぶれがなく、ほほえましく楽しい。(「平家の群像」)
『右京大夫集』には、炭櫃(すびつ、囲炉裏)をかこんで、気のあった女房たち四人が楽しく語りあっているところに、内裏の宿直(とのい)番を終えた重衡も加わり、いつものように冗談事やら、まじめな話やら、いろいろおもしろおかしく語り、挙げ句の果てに地獄の鬼を持ちだして脅す場面が活写されている(一九五番歌詞書)。また資盛への思いでいっぱいの右京大夫に、「自分は資盛殿の縁者なのにどうして相手にしてくれないの、すべて彼と同じと思いなさいよ」といってからかっている(一九七番歌詞書)。
(略)
『右京大夫集』に、彼は「またはかなきことにも、人のためは、便宜に心しらひありなどして(またちょっとしたことでも、他人のためには都合の良いよう心を遣ってくれたりなどして)」とあり(二一三番歌詞書)、人柄のよさは無類であった。
(「平家の群像」)
彼が後年一の谷の戦いで捕虜になり、関東に送られた時、斎院次官経験者で内乱開始後鎌倉に下ってきた頼朝側近の中原親能(ちかよし)は、「平家はもとより代々の歌人・才人達で候也。先年この人々を花にたとへ候しに、此(この)三位の中将をば牡丹の花にたとへて候しぞかし」と語ったそうな(覚一本巻十「千手前」)。
連歌師がつくったのではないかといわれている『平家花揃(へいけはなぞろえ)』という室町末期の作品がある。平家の人びとをそれぞれ花にたとえたもので、『平家物語』の右のくだりに触発されてつくったのでは、と考えられている。なるほど重衛は「牡丹の花の匂(にほい)おほく咲きみだれたる朝ぼらけ」に郭公(ほととぎす)の一声がしている風情で、維盛のほうは山際白む春の曙、吹きよる風に「樺桜(かばざくら、チョウジザクラ・ヤマザクラなどの古名)」が打ち散る景色だった。
(「平家の群像」)
3月5日
・平重盛、正二位内大臣兼右大将となる(小松内府と呼ばれる)。
藤原師長、太政大臣となる(重盛は師長の後任の内大臣)。
3月5日
・藤原実定、12年の雌伏から解放され大納言に還任。永万元年(1165)8月17日に大納言を辞任し、その代わりに清盛が大納言に任じられるという、いわくつきの人事の後、長い間、前大納言のままにあった。『平家物語』は実定が厳島神社に詣でて祈った結果、それが清盛の耳に入って大納言に復帰したと語る。
12月27日更に左大将。寿永2年(1183)4月5日内大臣(左大将)。文治2年(1186)10月29日右大臣(左大将)。
3月9日
・後白河法皇(51)、天台座主明雲に神輿動座の責任者追及の院宣を発す。涌泉寺は正式な白山末寺でもないのに、末寺と称して神輿を動かすのは以ての外、首謀者南陽房明恵・聖道房坐蓮を出頭させよと命令。叡山はこれに反撥、叡山と白山の本山末寺が協力して神輿を迎える事に決す。白山側使者仏光法師らは叡山を下り、翌日敦賀に戻り、その翌日再び神輿が動き出す。
14日、涌泉寺衆徒ら、舟で琵琶湖を南下、比叡山着。
3月18日
・後白河法皇(51)、恒例の千僧供養のために福原に向かう。
15日から3日間にわたる千壇供養法では、そのうちの100壇を法皇が勤め、他の900壇を東寺・天台・真言諸宗の長者が勤める。
18日からの3日間は建春門院のために千人の持経者による供養があり、その持経者は殿上人や院北面・武者所、主典代(しゆてんだい)、庁官などに割り当てられて集められた。
3月21日
・安元の強訴。延暦寺大衆が加賀国司藤原師高の配流を求め下山。
翌日、法皇は奏状を提出して訴えるように座主に伝え、それの審議の結果、28日、加賀目代で院武者所の藤原師高(もろたか)の備後国への流罪が決まった。
(経緯)
法皇近臣の随一とされていた僧西光(帥光もろみつ、成親の弟、家成の子、顕季の家系)の子藤原師高が加賀守となり、その任じた目代と山門の末寺である加賀の白山との間で起きた争いが事件の発端。白山の末寺の宇河(うかわ)寺を目代が焼いたことに怒った白山の僧侶が訴訟を起こし、本寺の山門を通じて朝廷に訴え、その結果、理由のいかんを問わずに焼き払ったことの責任が問われて目代は更迭され、さらに配流に処せられた。しかし白山と山門の衆徒はそれでは満足せず、国司の配流を要求して強訴するに至った。
背景には、社寺と知行国支配の対立があった。地方の寺院が中央の大寺院の傘下に入って末寺となって系列化していったこと、院近臣が法皇に奉仕するべく知行国の支配を法皇の権威に基づいて強化していったこと、この二つの動きが衝突し、地方の一事件が朝廷の大事へと発展していった。かつて藤原成親の知行国の尾張での紛争が、ついには成親らの流罪へと発展していった事件の再来となった。その轍は踏むまいと、法皇は強硬な態度に出た。
人伝に云はく、山上の大衆已に京に下らんとすと云々。これ去年の訴ヘなり。加賀守師高、配流せらるべき由云々。件の目代かの国の白山領を焼き払ふと云々。子細委しく聞かず。(『玉葉』安元3年3月21日条)
つづく
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