2022年6月28日火曜日

〈藤原定家の時代039〉治承3(1179)1月~3月 定家(18)父俊成より古今・御撰両集の口伝を受ける 定家(18)内の昇殿「始めて青雲の籍に通じ、遠く朧月の前を歩む。時に十八」 赦免された丹波少将成経・平判官康頼入洛    

 


〈藤原定家の時代038〉治承2(1178)11月~12月 高倉天皇(18)と中宮徳子に言仁親王(安徳天皇)誕生 翌月立太子 源頼政(74)従三位 より続く

治承3(1179)

1月

・平時子、平徳子・言仁親王御所に参内。

・平重衡、左近衛中将となる。

・宗盛が東宮大夫を辞任して花山院兼雅が大夫になり、権大夫には知盛が任じられている。

・平時忠が検非違使の別当に任じられているが、これは忠雅の弟の藤原忠親が別当を辞任した替えであった

・平清盛、重盛の子清経らを供にして厳島に詣でる。

1月6日

・東宮御生誕50日の「五十日(いか)の祝」が閑院内裏で行なわれる。閑院内裏は左京3条2坊15町16町(二条大路南、三条坊門小路北、西洞院大路西、油小路東の二町)を占め、高倉天皇の内裏。

1月11日

・伊勢斎宮功子内親王(高倉天皇第1皇女)の母(高倉天皇乳母、帥局)、没。

1月11日

・清盛の富士山参詣計画。

この日、参院して法皇に挨拶、さらに参内して天皇や中宮・東宮にも挨拶を終え、2日後には富士山に向かう予定。ところが、前日、急遽延引され、代わりに知盛が代官として派遣されることになった。しかしこれも中止となる(『山槐記』)。

富士山は、都良香(みやこのよしか)の『富士山記』が、「これより高い山はなく、天の際(きわ)にあつて海を臨んでおり、貞観年間には山頂で白衣の美女二人が舞つていた」と記しているように、古くから信仰の山として知られており、富士を神体とする浅間神社は駿河の一宮とされていた。その駿河の浅間神社が整備されたのは厳島神社の整備と同じ頃である。

『本朝世紀』によると、久安5年(1149)4月に富士上人が鳥羽法皇に参じて大般若経の書写を勧進した。上人は富士に登ること数百度に及び、頂上に大日寺(だいにちじ)を建立し、関東の民庶に大般若経の書写を勧め、さらに法皇にも勧めにやってきたという。そこで院中の男女に勧めて書写がなされ、5月13日には、完成した如法経の供養が院の主催で行われ、富士の頂上に理経されることになった。おそらくこの時、清盛も院中に伺候していたので書写に関わっていたと思われる。

清盛の動機は、西国の海の厳島に対して、噂に聞いた東国の、山の富士の信仰をも獲得しようというもの。海と山とを支配し、また関東の民庶の信仰を獲得している富士と浅間神社に参詣することによって、東国を支配することをも睨んでいたともいえる。代官に指名された知盛は武蔵の知行国主であった。しかしこの季節は富士登山には悪く、また東国に赴くのは治安の問題もあり、結局、計画は潰れてしまった。

1月19日

・源(久我)通親、高倉天皇の蔵人頭に就任。平知盛、右兵衛督(左近衛中将辞職)兼東宮権大夫となる。

2月8日

・春日祭において平重衡(24)が東宮使を務める。

2月9日

・藤原定家(18)、「和歌の長者」と称される父俊成より古今・御撰両集の口伝を受ける。

2月13日

・平清盛(62)、これまで日本に伝わってこなかった唐書「太平御覧(たいへいぎよらん)」の写しをとって内裏に献上。

2月22日

・東宮言仁(ときひと、のちの安徳天皇)誕生百日の祝い。拍子・笙・笛が奏される時、笛は高倉天皇近習の藤原泰通が準備していたが、その場で維盛が望んだので、たちまち彼に変更したという。

2月26日

・平宗盛(33)、権大納言・右大将を辞任。

2月28日

・藤原殖子(23、信隆女、のち七条院)が高倉天皇第2皇子守貞(もりさだ)親王を出産。乳母には徳子の実兄知盛の妻と頼盛の娘があてられ、養育は西八条亭で行なわれた。言仁に万一ある場合を予想して、控えとされたのであろう。

2月29日

・厳島神社を22社と同列に扱って祈年穀奉幣(ほうへい)の対象にするかどうかを議するが、官幣を捧げるのみとしてこれは見送る。

3月

・後白河法皇、厳島参詣。高倉・平徳子・平清盛の幸福祈願。

3月2日

・安達盛長、頼朝の使いとして、富寺の鐘に署名をする。

3月11日

・平重盛、病により内大臣辞職。

3月11日

・藤原定家(18)、内の昇殿を許される。

恐らくこの日より「明月記」をつけ始める。現存は翌年(1180)年2月5日が最初。

「夜に入りて北の小屋に宿す、朧月に懐旧の思ひを催す、治承三年三月十一日始めて青雲の籍に通じ、遠く朧月の前を歩む。時に十八寛喜三年三月十一日猶頭上の雪を戴き、僅かに路間の月を望む、時に七十(「明月記」寛喜3年3月11日条)。後年に思い出し述懐。

前年、大納言昇進目前の筆頭中納言中御門宗家と定家の姉妹が結婚、定家はその猶子となって同居する。この関係で内の昇殿が許される。

大納言拝賀の儀式に必要となるのが、行列を飾り、威儀を与える殿上人である。定家の昇殿は3月11日、定家・成家兄弟は3月24日の石清水臨時祭に舞人を勤め、さらに宗家が10月9日に大納言に就任すると、その拝賀の行列に従っている(『山槐記』)。

3月11日

・平清盛、公家並びに東宮言仁親王(のちの安徳天皇)の安泰の祈願のため河内大交野庄を石清水八幡宮寺に寄進。

3月中旬

・平重盛、熊野詣。平資盛など同道。

3月16日

・鬼界ヶ島から赦免された丹波少将成経と平判官康頼、入洛。

少将都帰(しょうしょうみやこがえり、「平家物語」巻3):

正月下旬、肥前鹿瀬庄を出発。2月10日頃、備前児島着。3月16日 鳥羽着、洲浜殿に入り、ここを出て、七条河原で成経と康頼は別れる。

帰洛後。

成経:後白河院に召し抱えられ、1182年に従四位上、翌年、平家都落後、8月25日、右近衛少将に還任、元暦2(1185)年6月、参議右中将正三位、文治5(1189)年7月蔵人頭、同6(1190)年10月参議まで昇る。建仁2(1202)年3月18日没(47)。赦免時は24歳。

康頼:東山に籠居。仏教説話集「宝物集」著作。晩年、尾張野間の源義朝の墓を整備し、頼朝から阿波麻殖の保司に補任。没年未詳。

有王(ありおう、「平家物語」巻3):

俊寛が召し使っていた有王という童が、鬼界ヶ島の流人が都入りすると聞いて鳥羽まで迎えに行くが、俊寛は島に残された事を知る。有王は鬼界ヶ島に渡ろうと決心し、3月末、都をを出て薩摩潟へ下り、苦労して俊寛を探し当てる。

僧都死去(そうずしきょ、「平家物語」巻3):

俊寛は、娘の手紙により娘以外の身内が皆先立った事を知り、食事もとらず、有王の到着後23日目に没(37)。有王は京に帰り、僧都の娘に一切を報告、娘(12)は尼になり、有王も法師となり、全国を修業してまわり主人の菩提を弔う。「平家物語」に描かれるこの悲劇から、世阿弥「俊寛」、近松門左衛門「平家女護島」、芥川龍之介「俊寛」などの作品が作られる。

3月18日

・後白河、清盛の西八条邸に招かれる。厳島の巫女の内侍(ないし)の唐装束(からしようぞく)による舞があり、翌日にも院の七条殿において同じ舞があっる。

3月20日

・後白河院、10回目の石清水参籠(~30日)。毎回100部の法華経転読を行ない合計1千部となる。またこの年の清盛のクーデター迄に3回の参籠を行う。院政維持・平家との対決での八幡大菩薩の加護を祈願。

3月24日

・藤原定家(18)、兄成家らと共に石清水臨時祭の舞人を勤める(「山愧記」)。

3月24日

・信濃国善光寺、焼ける。

3月26日

・中宮徳子の御産の祈りが無事に果たされたことから、奉幣の使者として重衡が厳島に派遣されることになる。

3月29日

・清盛の推薦で大将になった徳大寺実定(さねさだ、41)が大納言藤原実国(さねくに)や中納言藤原宗家(むねいえ)をともなって厳島に赴く。


つづく


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