2022年6月27日月曜日

〈藤原定家の時代038〉治承2(1178)11月~12月 高倉天皇(18)と中宮徳子に言仁親王(安徳天皇)誕生 翌月立太子 源頼政(74)従三位

 


治承2(1178)

11月12日

・高倉天皇(18)と中宮平徳子の間に言仁親王(安徳天皇)、誕生。

徳子が入内して7年目。乳母、平重衡妻・藤原邦綱娘輔子、平時忠妻・洞院局。

六波羅泉殿における徳子の御産は難産で、ようやく11月12日寅刻(午前4時)産気づき、近臣や中宮職の三等官らはあわただしかった。ここでいう近臣とは三位中将知盛・中宮亮重衡・中宮権亮維盛・左少将清経・侍従資盛である。ところが出産はずれこみ未(ひつじ)の二点(午後2時前)に至りようやく皇子が誕生する。『平家物語』では、中宮亮重衝が御簾(みす)の内より素早く出でて、「御産平安、皇子御誕生候ぞや」と高らかに申した。一同あっとどよめきしばし静まらず、清盛はうれしさのあまりに声をあげて泣いたという(巻三「御産」)。

重衡の妻は大納言藤原邦綱の三女輔子(ほし)で、言仁の乳母になった。邦綱は摂関家の家司として台頭してきた過去があり、忠通の子基実の死後、その遺領を後家の白河殿盛子(清盛の次女)が相続するよう計らった人物でもある。娘を歴代天皇の乳母とし、富裕で知られ、清盛にとってはもっとも信頼に足る盟友だった。輔子は安徳即位後女除目で典侍となり、父の邸宅名や官名から五条局、のち大納言典侍と称された。

(「平家の群像」)


「法皇密々西面より北門の方に臨幸あり。加持を奉らる。また諸僧無音の由、頻に責め仰せらる。大夫亮及び近臣らその仰せを奉じ、南面の方へ之を仰す。諸壇伴僧のうち陀羅尼などを能くするものを召し加へ、その声雷となる。」(「山槐記」)

御産(ごさん、「平家物語」巻3):12日中宮が産気づき、京・六波羅は大騒ぎ。法皇、関白、太政大臣、公卿、殿上人は六波羅に来る。神社に奉納。諸寺はお祈り。清盛・二位殿はうろたえる。そして皇子が生まれる。

公卿揃(くぎょうぞろえ、「平家物語」巻3):

六波羅に来る人33人。関白松殿(基房)、太政大臣妙音院(師長)、左大臣大炊御門(経宗)、右大臣月輪殿(つきわとの)兼実、内大臣小松殿、左大将実定、源大納言定房、三条大納言実房、五条大納言邦綱、藤大納言実国、按察使資賢(すけかた)、中御門中納言宗家、花山院中納言兼雅、源中納言雅頼、権中納言実綱、藤中納言資長、池中納言頼盛、左衛門督時忠、検非違使別当忠親、左の宰相中将実家、右の宰相中将実宗、新宰相中将通親、平宰相教盛、六角宰相家通、堀河宰相頼定、左大弁宰相長方(ながかた)、右大弁三位俊経、左兵衛督成範(しげのり)、右兵衛督光能(みつよし)、皇太后宮大夫朝方(ともかた)、左京大夫脩範(ながのり)、太宰大弐親信、新三位実清。

頼豪(らいごう、「平家物語」巻3):

白河院が帝位にあった頃、三井寺の僧頼豪に祈祷をさせて皇子が産まれた。褒美は思うままにと言っていたが、三井寺に戒壇を設けるという願いの為、叶えられず頼豪は憤死、親王を呪殺。この例をひき、今回の御産で俊寛が赦免されなかったことを嘆く。

11月16日

・平清盛、福原に下向。26日、再度上洛し、皇子を皇太子にするよう要請。

11月28日

・この日、後白河から呼び出された兼実は、立太子を2~3歳で行った時の先例が悪いので、年内に行いたいがどうであろうか、関白と相談してほしい、と命じられる。関白基房と相談の結果、4歳まで待つのでは遅いということになり、年内の立太子が実現することになる。1歳で立太子の例の清和天皇、鳥羽天皇などはすべて即位が実現しているが、2歳の保明(やすあきら)太子・実仁(さねひと)太子、3歳の慶頼太子はいずれも即位前に亡くなっていた。

翌日、兼実は、12月に皇太子を立てるのは先例にないとの批判を耳するが、末代の政治はすべて急速を事とするものであり、4歳を待つまでもなく、年内に行うのが「乱世の政」に叶うというべきであろう、と自嘲気味に記す。

12月8日

・高倉天皇第1皇子に親王宣下。言仁親王。

15日、言仁親王を皇太子に冊命。次期天皇となることが明確になる。 

東宮坊の人事は、傅に左大臣経宗、大夫(だいぶ)に宗盛、権大夫に花山院兼雅、亮(すけ)に重衡、権亮(ごんのすけ)に維盛という布陣で、平氏一門とその関係者で固められた。

12月24日

・関白基房の子の中将師家、四位に。兼実の嫡子良通(12)、三位に。兼実、「稀有のなかの稀有なり」と記して法皇に感謝する。

・平資盛、右近衛権少将。平清経、従四位上。平有盛、正五位下・侍従。

・源頼政(74)、平清盛の推輓により従三位に叙任、公卿に列する。別名の源三位頼政の由来。

清盛は「源氏・平氏は我が国の堅めであるが、平氏は勲功により朝恩が一族にいきわたっており、威勢も四海に満ちている。しかるに源氏の勇士は逆賊にくみして罰を受けており、そのなかで頼政のみが性正直にして勇名を世に轟かせていることから、年も七〇、重病とも聞くので、とくに紫綬(しじゆ)の恩を授けて欲しい」と奏上。

「今夜頼政三位に叙す。第一の珍事なり。是入道相国(平清盛)の奏請と云々。其の状に云ふ。源氏平氏は我が国の堅めなり。而して平氏においては、朝恩已に一族に普く、威勢殆ど四海に満つ。これ勲功に依るなり。源氏の勇士、多く逆賊にくみし、併せて殃罸に当たる。頼政独り其の性正直にして勇名世を被ふ。未だ三品に昇らざるに、已に七旬に余る。尤も哀憐あり。何ぞ況や近日身重病に沈むと云々。黄泉に赴かざるの前に、特に紫綬の恩を授けんてへれば、この一言により三品に叙せらると云々。入道奏請の状賢なりと雖も、時人耳目を驚かさざるものなきか。」(「玉葉」12月24日条)

保元・平治の乱に手兵を率いて参加、保元3年(1158)後白河院より院の昇殿を許され、平治元年(1159)従五位上。六条天皇の代の仁安元年(1166)10月正五位下、同年12月六条天皇に内昇殿、この頃迄に正五位上、翌仁安2年1月従四位下と短期間に官位昇進、仁安3年高倉天皇に内昇殿、同11月従四位上、嘉応2年(1170)1月右京権大夫。治承3年(1179)11月平清盛クーデター後、11月28日出家。翌治承4年4月9日以仁王令旨。5月22日子の伊豆守仲綱以下50余を率い以仁王に参じ平家の大軍と戦い、26日宇治の平等院で自刃。享年は「尊卑分脈」76才、「公卿補任」に「年七十五。源平盛衰記七十七」と註される。

源氏の叙位は、満仲:正四位下、頼光:正四位下、頼信:従四位上、頼義:従四位下、義家:正四位下、義親:従五位上、為義:従五位下、義朝:従四位下、頼政:従三位、仲綱:正五位下。

平家では、清盛:従一位、二位:教盛・頼盛・重盛・知盛・宗盛、三位:経盛・重衡・徳子・寛子・維盛・資盛。しかし、清盛以前では、清盛の父忠盛は正四位上、祖父正盛は従四位下。


つづく


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