2022年6月20日月曜日

〈藤原定家の時代031〉安元3/治承元(1177)4月 山門強訴(重盛側の矢が十禅師宮神輿にささり僧兵は逃げ帰る) 加賀国司師高・目代師経兄弟を解任・流罪で決着 安元の大火(太郎焼亡)        

 


〈藤原定家の時代030〉安元3/治承元(1177)3月 定家(16)皰瘡 「公達の盗人」(『平家公達草紙』) 平重盛正二位内大臣兼右大将(小松内府) 安元の強訴(一旦は師高の配流が決まる) より続く

安元3/治承元(1177)

4月2日

・『玉葉』が加賀目代師経の処分を記している

去る晦日(3月28日)、山僧の訴へに依り、加賀目代師恒備後国に配流せられ了んぬと云々。(『玉葉』安元3年4月2日条)

4月12日

・延暦寺僧徒、叡山の八王子宮神輿・客人権現神輿・十禅師宮神輿と共に、白山神輿を奉じ都に向かい、祗園・北野らの社人と鴨川河原で合流、2千余に膨れ上がった僧兵たちは御所に向かい、加賀守藤原師高を流すよう訴える。閑院の内裏に強訴に及んだ衆徒が北の陣に向かったところ、そこを守備していた源頼政は郎等の渡辺競(きおう)を衆徒のなかに派遣して次のように訴えたという。頼政は、山門を大事に思い、また宣旨による命令も大事に考えているので、その苦衷を察してほしい。山門の訴えが道理であるからには、その神威を示すためにも重盛の固める正門の東門からこそ攻めるべきであろう、と。

この言い分は認められ、衆徒が重盛の固める東門を攻める。平重盛側の弓矢により僧兵数人落命、負傷者数知れず、叡山(日吉)の十禅師(じゆうぜんじ)宮神輿に矢がささる。僧兵たちは驚き恐れ、神輿を放り出して叡山に逃亡。祗園社別当に命じ、神輿を祗園社に安置。

重盛の軍兵の行動は、法皇の命令による衆徒勢防禦のためとはいえ、その行き過ぎについての非難の声が、都の貴族たちの間に高まり、平氏が面目を失う結果をもたらした。またこの神威をけがしたという一事だけで、院政当局側の立場も不利となり、法皇はやむなく師高を尾張に配流した。

(白山衆徒の動き)

2月5日、白山側の衆徒、願成寺着。6日仏が原、金劔宮、3日逗留。10日金劔宮出発、あわづ(粟津)着。11日須河社(江沼郡菅波?)、12日越前細呂宜(木)山の麓、福竜寺森の御堂に入る。13日木田河のはた、14日小林の宮、15日かえるの堂、16日水津(敦賀市杉津)の浦、17日敦賀の津、金が崎の観音堂へ入る。3月13日敦賀津発、荒智の中山を越えて海津の浦着。14日客人の宮(日吉七社の一つ)の拝殿に入る。4月13日白山佐羅宮の神輿、日吉7社の神輿と共に比叡山から下洛。

去夜半より台山の衆徒参洛し、祇陀林寺に集会し、即ち陣の口に参らんとする間、官兵のため射散らさる。東西分散し、神輿等路次に弃て置くと云々。件の神輿に矢を射立つと云々。古来衆徒の騒動ありと雖も、未だその矢神輿にあつる例無し。尤も懼るべし懼るべし。(『玉葉』安元3年4月13日条)

『百錬抄』安元3年4月13日条には「神人宮仕等同中矢亡命」とあり死者が出たと記している。

さて神輿を、先立てまいらせて、東の陣頭、待賢門より入奉らむとしければ、狼籍忽に出来て、武士ども散〃に射奉る。十禅師の御輿にも、箭どもあまた射立てたり。神人(じんにん)宮仕(みやじ)射殺され、衆徒おほく痕を蒙る。をめきさけぶ声、梵天までもぎこえ、堅牢地神も驚くらむとぞおぼえける。大衆神輿をば陣頭にふりすて奉り、泣く泣く本山へかへりのぼる。(『平家物語』巻一 御輿振)

4月14日

・高倉天皇・平徳子、法住寺殿へ移る。この日、暴風で三条大宮の家々倒壊。18日も暴風。

この日、再び強訴の噂が流れ、高倉天皇は法住寺殿に行幸。

兼実はその様子を記して「仏法王法滅盡(めつじん)の期(ご)至るか。五濁の世、天魔その力を得、これ世の理運なり」と記し、さらに「夢か夢にあらざるか」「嘆きて益なし」とも記して、予想もできない事態の動きに憂慮している。

・『玉葉』のこの日の条の末尾に、「或人語りて云はく、大衆書状を相国入道に送りて云はく、訴訟を致さんため、猶公門に参るべし。早く用心を致さるべきなりと云々。忽にこの状を見、深く以て恐懼し、これに因り行幸の儀出で来たると云々。」とある。

天皇行幸の理由が、平清盛の許に送られた延暦寺大衆からの再度の強訴を伝える書状にあったということを「或人」が明かしたという。

4月14日

・後白河は、大衆が下ってきた際に官兵をやって道を塞ぐべきかどうかを人々に問うが、もしそうなると京が戦場になる恐れが生じるという意見が出て断念している。かつて鳥羽法皇が清盛の起こした祗園事件に際して武士を派遣して防いだのとは大きな変化である。なお大衆は、独自に福原の清盛に書状を送り、訴訟のために公門に参じることを伝えていたという。

〈源三位頼政の活躍ぶりを描く『平家物語』〉

□「平家物語」巻1「御輿振みこしぶり」

(概要)

重盛は3千余で陽明・待賢・郁芳(ゆうほう)門を固める、宗盛・知盛・重衡・頼盛・教盛・経盛などは西南の陣を固めた。源氏では、大内守護源三位頼政が渡辺省(はぶく)・授(さずく)を中心に300余騎で北の門を固める。頼政は、手薄を見てここを通ろうとする衆徒に対して、無勢のこちらから入るなら、弱みにつけ込んで通ったといわれるであろう、大勢で固める東の陣から入ったらどうかと言い、衆徒は納得、東の待賢門から入ろうとして損害を受け比叡山に帰る。

(詳細)

比叡山の僧たちが、日吉の祭礼を中止し、神輿をもって内裏の門へ押し入ろうとし、源平両家に対して、内裏の四方の門を固め僧兵侵入を防ぐよう朝廷から命令。 平家は重盛・宗盛以下3千余騎を動員し、陽明・待賢・郁芳の各門(大内裏の東側で、僧兵の殺到する正面)と、西・南側をを固める。

「源氏には、大内守護の源三位頼政卿、渡辺の省(はぶく)、授(さずく)をむねとして(主な大将として)、その勢わづか三百余騎、北の門、縫殿の陣(内裏の北の門、朔平門、すなわち縫殿)をかため給ふ。所はひろし勢は少なし、まばらにこそみえたりけれ。」。山門の大衆らは、頼政の守る防備非力な北の門から入ろうとし、北の門へ神輿を持ってくる。「頼政卿さる人(なかなかの人)にて、馬よりおり、甲をぬいで、神輿を拝し奉る。兵(つわもの)ども皆かくのごとし。衆徒の中へ使者をたてて、申し送る旨あり。その使いは渡辺の長七唱(となふ)という者なり。」。唱は神輿の前に行き、畏まって口上を述べる。「衆徒の御中へ源三位殿の申せと候。今度山門のご訴訟、理運の条もちろんに候。ご成敗遅々こそ、よそにても遺恨に覚え候へ。さては(そうあるからには)神輿(しんよ)入れ奉らむ事、子細に及び候はず。ただし頼政無勢候。そのうえ開けて入れ奉る陣より入らせ給ひて候はば、山門の大衆は目だり顔(ひとの弱みにつけこむ下卑た顔)しけりなどと、京わらんべが申し候はむ事、後日の難にや候はんづらむ。神輿を入れ奉らば、宣旨を背くに似たり。また防ぎ奉らば、年ごろ医王山王(根本中堂の本尊の薬師如来)に首をかたぶけ奉って候身が、けふより後、弓箭の道にわかれ候ひなむず。彼といひ是といひ、かたがた難治の様に候。東の陣は小松殿大勢で固められて候。その陣よりいらせ給ふべうや候らむ。唱がかく申すにふせかれて(気勢を殺がれて)、神人宮仕しばらくゆらへたり(進みかねる)。若大衆どもは「なんでうその儀あるべき。ただこの門より神輿を入れ奉れ」と云う族おほかりけれども、老僧のなかに三塔一の僉議者(叡山一の雄弁家)ときこえし摂津竪者(りっしゃ)豪運、進みいでて申しけるは「もっとも、さ言われたり。神輿をさきだてまいらせて訴訟を致さば、大勢の中をうち破ってこそ後代の聞こえもあらんずれ。就中にこの頼政卿は、六孫王(経基王)よりこのかた、源氏嫡々の正棟、弓箭をとっていまだその不覚をきかず。およそ武芸にもかぎらず、歌道にもすぐれたり・・・

・・・近衛院ご在位の時、当座の御会(即座に出された題で詠む歌会)ありしに、「深山花」という題をいだされたりけるを、人々よみわづらひたりしに、この頼政卿、深山木のそのこずゑともみえざりしさくらは花にあらはれにけり  という名歌つかまつって御感にあづかるほどのやさ男(風流のたしなみのある男)に、時に臨んで(いくら時が時だといって)、いかがなさけなう恥辱をばあたふべき。この神輿かきかえし奉れや」と僉議しければ、数千人の大衆先陣より後陣まで、皆もっとももっともとぞ同じける。」 

その後、神輿は、東の待賢門に向かい平家勢と激しい「狼藉」となり、武士は神輿を激しく射たので神輿に矢が多数たち、神人・宮仕が射殺され、斬り殺された。衆徒たちは結局神輿を「振り捨て」て山に帰る。

4月15日

・『玉葉』のこの日の条に、「賀茂祭(十六・七日)の後に沙汰あるべし」という決定が座主に出され、大衆が落ち着いたとある。

平時忠の延暦寺説得

『平家物語』(覚一本巻一 内裏炎上)では、事態収拾の為に後白河は左衛門督平時忠を派遣したとある。内容の全てが史実であるかは疑わしいが、時忠の説得はあったとされている。

比叡山大講堂の庭では東塔・西塔・横川の衆徒による三塔会議が開かれていた。大衆の怒りは収まらず、時忠の「しや冠うち落せ。其身を搦て湖に沈めよ」と極めて強硬であった。あわや狼藉というところで、時忠は、衆徒に申し上げたいことがあると、畳紙に一筆書き上げ、これを大衆に遣わした。開けて見ると、中には「衆徒の濫悪を致すは、魔闇の所行也。明王の制止を加るは、善政の加護也」と書かれてあった。大衆はたちまち「尤〃と同じて」、それまでの態度をひるがえしそれぞれの自坊に戻って行ったという。面目を施したのはや時忠で、「一紙一句をもツて、三塔三千の憤をやすめ、公私の恥をのがれ給へる時時忠卿こそゆゝしけれ」と称えられている。

4月17日

・『玉葉』のこの日の条に、衆徒の強訴については取り敢えず不問に付し、国司師高と官兵の処罰を行う旨の16日付けの御教書が掲載されている。

4月17日

・曖昧な事後処理

この日、国司の配流と神輿を射た下手人を罪科に処す方針が座主に伝えられ、18日に射られた神輿を祗園社に安置するようにと祗園別当の澄憲(ちようけん)に命じた。19日、内侍所(ないしどころ)を洛外の法住寺殿に移すことも議論されたが、反対があって取りやめになった。その際に内侍所の守護を命じられた経盛が、清盛の命がなければ動かないと称したため、頼政が福原に派遣されるというハプニングも起きる。これを聞いた宗盛は、清盛が経盛には法皇と一所にいるように命じているのだと語ったといい、法皇の動きに清盛は問題を感じていたと推測できる。

4月19日

・後白河法皇、長講堂で法花八講。

4月20日

・宣旨により、加賀守藤原師高・目代師経兄弟を解任、尾張・備後へ流罪。神輿に矢を射た平家郎等6人禁獄。延暦寺と平家の友好関係回復。結末はまたしても朝廷が山門の言い分をそのまま飲まされたことになる

4月28日

・安元の大火。「太郎焼亡」(たろうしょうぼう)。

戌刻(午後8頃)、都五条東京極南西の病人収容小屋かから出火、西北へ。朱雀門・大極殿・大学寮・民部省、松殿基房邸等、焼失。太陽暦1177年5月27日。

4月28日夜半、樋口富小路(現、万寿寺通富小路附近)から出火、南東の風に煽られて、西北方面に扇状に延焼。焼失範囲は、東は富小路、西は朱雀大路(千本通)、南は六条大路、北は大内裏までの約180余町(180万平方m)。大極殿を含む八省院全部と朱雀門・応天門・神祇官など大内裏南東部、大学寮・勧学院、関白藤原(松殿)基房ら公卿の邸宅13家、重盛の邸宅などが焼失。焼死者は数千人に及ぶという。

「去安元三年四月廿八日かとよ、風はげしく吹きて、静かならざりし夜、戌の時許、都の東南より火出できて、西北に至る。はてには、朱雀門、大極殿、大学寮、民部省などまで移りて、一夜のうちに塵灰となりにき。火もとは、樋口富の小路とかや、舞人を宿せる仮屋よりいできたりけるとなん。吹き迷ふ風に、とかく移りゆくほどに、扇をひろげたるがごとく末広になりぬ。遠き家は煙にむせび、近きあたりはひたすら焔を地に吹きつけたり。空には灰を吹き立てたれば、火の光に映じて、あまねく紅なる中に、風に堪へず、吹き切られたる焔、飛が如くして一二町を越えつゝ移りゆく。其中の人、うつし心あらむや。或は煙にむせびて倒れ伏し、或は焔にまぐれてたちまちに死ぬ。或は身ひとつ、からうじてのがるゝも、資財を取出るに及ばず。七珍万宝さながら灰燼となりにき。其費え、いくそばくぞ。其たび、公卿の家十六焼けたり。まして、其外数へ知るに及ばず。惣て都(左京)のうち、三分が一に及べりとぞ。男女死ぬるもの数十人、馬牛のたぐひ辺際を不知。」(鴨長明(23)「方丈記」)。

火元は樋口富小路。「舞人を宿せる仮屋(遍歴・漂泊の芸能者を仮泊させる簡易施設)」であった。

「内裏炎上」(「平家物語」巻1)。

「家々の日記、代々の文筆七珍万宝さながら塵灰となりぬ。その間の費え如何ばかりぞ。人の焼け死ぬること数百人、牛馬の類は数を知らず。これ徒事(ただこと)にあらず」(略)「山王の御咎めとて、比叡山より大きなる猿共が、二三千おりくだり、手ん手に松火(まつび)をともいて、京中を焼くとぞ、人の夢には見えたりける。」

「火災盗賊、大衆兵乱、上下騒動、緇素(しそ)奔走、誠に乱世の至りなり。人力の及ぶところに非ず。天変しきりに呈すと雖も、法令敢て改めず。殃(おう)を致し禍を招く。其れ然らざらんや」」(「玉葉」)。


つづく

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