承安4(1174)
1月
・平時忠、建春門院の御給で先任者4人を越えて従二位に叙せられる。最終は正二位・権大納言に至る。
非蔵人から身を起こした人物としては異例の昇進。妹および姪が入内し、あいついで立后したのが作用しているが、自身の政治手腕に負うところも大きい。三度目の検非違使別当の時、自邸の門前で強盗12人の右手を切断させたり、山科において獄囚15人を斬首し、21人の手を切ったりしたことからも、強気で非情な性格がうかがわれる。福原の新都建設がゆきづまった時、京都帰還に最後まで反対したのも時忠だった。「此一門にあらざらむ人は、皆人非人(にんぴにん)なるべし(平家にあらずんば人に非ず)」と豪語した(覚一本巻一「禿髪(かぶろ)」)、と伝えられる。
1月7日
・九条兼実、従一位に昇る。
久安5年(1149)、藤原忠通3男として誕生。母は太皇太后宮大進藤原仲光女加賀。同母兄弟4人中の長子(同母弟に太政大臣となる兼房、天台座主となる慈円)。保元3年(1158)元服、正五位下叙任、左近衛権中将任命。永暦元年(1160)従三位、公卿に列す。同年正三位、権中納言・左近衛権中将を兼任。翌応保元年(1161)権大納言昇進、右近衛大将兼摂。応保2年(1162)正二位、長寛2年(1164)16歳で内大臣。仁安元年(1166)右大臣。承安4年(1174)の頃、中央政界は平氏一門と強力な院政を目論む後白河法皇の対立が軸となる、兼実は両者に批判的。特に平氏に対して非協力的で、政治の中枢から一定距離を置いた傍観者的態度を取る。寿永2年(1183)平氏の西国逃亡の際、後白河院の諮問に対し後鳥羽天皇践祚を進言。
1月23日
・後白河院(48)・建春門院(33)、日吉社に参詣。
2月5日
・後白河院、高倉天皇を法住寺殿に迎え、闘鶏・咒師(じゆし)・猿楽などの芸能でもてなす。
2月6日
・高倉天皇、中宮平徳子方へ方換違えの行幸。
2月23日
・八条院(38、暲子内親王)の仁和寺御堂(蓮華心院)供養。
2月23日
・~30日、建春門院の理趣三昧、後白河院御所の法住寺殿最勝光院小御堂で行われ、後白河院も参列、小侍従(高倉天皇の内裏女房)も聴聞。
「弥勒寺別当法印成清捧げ物を進ず。御室御料として蒔絵前机一脚[蓮の散華を蒔き、閼伽器一前、金剛盤一枚、独鈷、五古鈴等を置く]、同じく脇机一脚[蒔念珠、灑水塗香器散杖等を置く]。請僧八口料として、各黒漆前机一脚[金剛盤、鈴五古、閼伽器、灑水器、塗香器等を置く]。事始まらざる以前に、各座前に立て置かしめ、中宮権大夫(平時忠)之を検知せらる。」(「吉記」)。
2月26日
・皇嘉門院九条御所焼亡。
3月
・伊東祐親、3年間のつとめを終えて京から戻る。
3月3日
・義経(16)、鞍馬寺を出て奥州平泉に下る。
「沙那王十六と申、承安四年三月三日のあかつき、鞍馬寺をぞ出ける」。義経を都から連れ出すのは、「平家物語」では金商人、「平治物語」では「諸陵助重頼」、「義経記」では「金売り吉治」。途中、近江の鏡宿(滋賀県竜王町)で自らの手で元服。下総の重頼の館に落ちつく。
重頼の館では義経が乱暴なためもて余すが、そのうち義経が出て行き伊豆の頼朝と対面(疑わしい)。頼朝から陸奥の信夫小大夫の後家尼の大窪太郎の娘を紹介され会いにゆき、子の佐藤四郎忠信を家来につけられる。その後、多賀国府(陸奥守・鎮守府将軍の拠点)に到着。ここで金売り商人が秀衡との対面を準備してくれ、これが実現。秀衡の下で厚遇され、やがて頼朝挙兵の報にかけつける(「平治物語」)。
藤原秀衡、義経を受け入れる以前に、①平治の乱で滅んだ藤原信頼の兄基成の娘を妻とし、泰衡を儲ける(基成:康治2(1143)~仁平3(1156)陸奥守、一旦都に戻るが再度奥州に下る。②鹿ヶ谷の謀議に加わり流された後白河法皇近習の前山城守中原基兼を受け入れる。
3月7日
・高倉天皇(14)、法住寺殿に方違の行幸。
3月16日
・後白河院・建春門院、平清盛(57)の福原の別荘に御幸。19日、福原発。26日、厳島神社に参詣。建春門院、神宝奉納(大日経、理趣経、蒔絵手箱)。平清盛・平宗盛・平知盛・平重衡、平時実・親宗、源資賢、藤原光能、藤原成経、東大寺別当顕意法師、従う。4月9日、後白河院、帰洛。
法皇に仕えた藤原経房は、日記『吉記』に安芸の厳島へ上皇や女院が赴くのは前代未聞のことであり、「希代の事」と記している。
清盛は途中の福原から同行しており、平氏一門では宗盛や知盛・重衡などが供をし、芸能の輩では源資賢(すけかた)や検非違使の平康頼、僧西光などが供をしていた。『梁塵秘抄口伝集』(巻10)にはこの時の様子をこう記している。
「・・・・・安芸の厳島へ、建春門院(=平滋子)に相具して参る事ありき。(承安四=一一七四)三月の十六日、京を出でて、同じ月廿六日、参り着けり。宝殿の様、廻廊長く続きたるに、潮さしては廻廊の下まで水湛(たた)へ、入り海の対(むか)へに浪白く立ちて流れたる。対への山を見れば、木々皆青み渡りて緑なり。山に畳める岩石の石、水際に白くして峙(そばた)てたり。白き浪時々うちかくる、めでたき事限り無し。・・・・・その国(=安芸国)の内侍二人、黒・釈迦なり。唐装束をし、髪をあげて舞をせり。・・・・・伎楽の菩薩の袖振りけむもかくやありけんと覚えて、めでたかりき・・・・・」
安芸厳島の風景に感嘆し、内侍の巫女の舞に堪能した後、巫女は法皇に向かって神託を伝える。神が「後世」を申すことをあわれに思い、今様を聞きたいとのこと。そこで法皇が今様を謡って涙を拭ったところ、清盛が、この神は後世を申すことを喜ぶものであるといったことから、めでたさをいっそう深くしたという。法皇は蒔絵の太刀二腰など、建春門院は厳島の大宮に大日経と理趣経(りしゆきよう)、中宮に天皇の装束と蒔絵の手箱、客宮に弓矢や剣、金銅製の馬などを寄せている(「厳島神社文書」)。
4月9日
・尋範没
6月
・八重姫と頼朝の仲が祐親に露見。祐親、激怒し、千鶴(頼朝・八重姫の娘)を滝つぼに投げ入れて殺す。
(註)
坂井孝一は・・・いささか想像をめぐらしてみたい[4]」・・・「不明な点、論証できない点は少なくないが[7]」などと断った上で、八重姫が夫・江間の小四郎の戦死後、「阿波局」という女房名で頼朝の御所で働くようになり、江間氏の所領を受け継いだ北条義時と寿永元年に再婚して、寿永二年に北条泰時を産んだのではないかとの仮説を提示している。その上で、「八重が義時の最初の妻であり、泰時の母であることを積極的に否定する証左はないように思われる[6]」とも述べている[8]。また、坂井が時代考証を務める大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は、この仮説に基づいたストーリーとなっている。一方で、この仮説について渡邊大門は、史料的な裏付けがない上に首肯できない点が多々あり、そもそも八重の実在そのものが疑わしく、八重が義時と結ばれたというのはかなりの無理筋だとしている[9]。
つづく
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