2022年6月7日火曜日

〈藤原定家の時代018〉嘉応3/承安元(1171) 高倉天皇(11)元服 平維盛(重盛長子、14)従五位下 平清盛娘徳子(17)入内、女御宣下 平時子従ニ位

 



嘉応3/承安元(1171)

1月

・厳島神社の荘園として立てられた安芸国の壬生荘が、院庁下文によって「公家并に建春門院御祈禱」の費用を調達するものとして立券される。「公家」は高倉天皇のことで、天皇とその母のための祈禱を負担する荘園として、壬生荘が整備・拡充されていった(『平安遺文』)。

1月3日

・高倉天皇(11)、元服。

儀式では摂政が加冠の役、左大臣藤原経宗が理髪の役を勤め、装束の奉仕を藤原邦綱、平宗盛・親宗(天皇の母建春門院の猶子)らが勤める。

『愚管抄』は建春門院についてこう語っている。

院ハ又コノ建春門院ニナリカへラセ給テ、日本国女人入眼(じゆがん)モカクノミアリケレバ誠ナルベシ。先ハ皇后宮、ノチニ院号国母ニテ、

日本の政治が女性の助けにより成り立つこと(「日本国女人入眼」)を建春門院の例に見ているのが知られる。慈円は藤原氏出身の女性が皇后・国母となって政治を助けていた摂関政治を理想としていたので、慈円の生きてきた時代の好例として建春門院をあげている。                

建春門院は相当にしっかりしていた女性らしく、女院に仕えた健御前(けんのごぜ、藤原定家の姉)の日記は「おほかたの御心おきてなど、まことにたぐひすくなくやおはしましけん」と、その心遣いの立派さを語り、「大方の世のまつりごとをはじめ、はかなきほどのことまで、御心にまかせぬことなし」と、政治のうえでのどんなに些細なことでも、女院の思いのままにならぬことはなかったという。

1月13日

・高倉天皇(11)、後白河法皇の御所に行幸。

1月18日

・源(久我)通親、右近衛権中将となる。この年、清盛の弟教盛の娘を娶る。

1月18日

・藤原俊成、備前権守を兼ねる。

4月7日

・平維盛(重盛長子、14)、従五位下に上る。臨時除目。翌年4月7日の臨時除目で正五位下に昇る。

4月21日

・「承安」に改元する。

4月21日

・平時忠(44)、権中納言に還任。

天皇元服後の朝覲行幸(ちようきんぎようこう)の際に、建春門院院の甥の時実(平時忠の子)が女院の御給(ごきゆう)により従五位上に叙され、この日、時忠が中納言に任じられる。先に宗盛が任じられて中納言9人の例が開かれたばかりだったが、ここに中納言10人の例も開かれ、「未曾有」のことと非難される(『玉葉』)。

4月27日

・高倉天皇(11)、大原野神社に行幸。重衡(15)供奉。

『月詣集(つきもうでしゅう)』の一〇月(附哀傷)歌に重衡の、

すみかはる月を見つつぞ思ひ出づるおは原山のいにしへのそら

という歌が収載されている。その詞書に「高倉院の御ことを思ひ出でて、今上(きんじょう、安徳天皇)御時、内裏にさぶらひける女房のもとへ申遣(もうしつかは)しける」とある。

5月29日

・後白河院(45)、熊野参詣に進発。

6月5日

・九条兼実の和歌の会の初見。

7月26日

・平清盛(54)、羊と麝(じゃこうじか)を法皇と建春門院(清盛妻時子の異母妹、滋子)に献じる。

8月10日

・摂政藤原基房(28)、前太政大臣藤原忠雅の嫡女忠子を娶る。

9月21日

・興福寺僧徒、入洛して前下野守平(大江)信遠を訴えようとし、摂政基房に制止される。 

興福寺領坂田庄を知行していた院の北面の武士平信遠が寺使に濫行をしたため、衆徒が信遠の流罪を要求して上洛を企てた。摂政藤原基房が家司の藤原兼光を遣して興福寺僧徒を慰諭させたためか、直接の嗷訴には至っていない。結着は必ずしも明らかではない。

10月23日

・平清盛(54)の娘徳子(17)の入内の定め。この日、後白河法皇と建春門院、平清盛の福原の別荘へ赴く。

船遊びが行われ、遊女には禄が与えられている(『百練抄』)。重盛や宗盛、時忠などの公卿6人、殿上人10人ほどが従ったという。

11月28日

・平清盛娘徳子(17)の入内が本決まりにり、待賢門院の例に基づいて法皇の猶子とされる。

12月2日

・平清盛娘徳子(17)の入内定、法住寺殿。従三位に叙任。

14日、後白河法皇養女として高倉天皇(11、徳子の従弟)のもとへ入内。法住寺殿から大内へ入る。

26日、女御の宣下。   

清盛は天皇の外戚の地位を獲得した。さらに『愚管抄』が「皇子ヲ生セマイラセテ、イヨイヨ帝ノ外祖ニテ世ヲ皆思フサマニトリテント思ヒケルニヤ」と指摘するような、天皇の外祖父となる道が模索されてゆくことになる。

12月8日

・平重盛、徳子入内に備えて再び大納言に復帰。

12月26日

・女御の宣下。   

披露宴にあたる露顕(ところあらわし)の日で、この日女御(にょうご、天皇の正式の妻)の宣旨が下され、結婚が認知された。重盛は新夫婦に食べさせて契りの長久を祈る小餅(三日餅みかのもちい)を準備し、維盛に天皇の寝所、ついで徳子のところまで運ばせている。(「平家の群像」)

親平家の公卿たち

この日、親族が参内して舞踏する親族拝(しんぞくはい)と呼ばれる儀礼が行なわれた。これに参列した面々として、左大臣大炊御門経宗(徳子の養外祖父)、椎大納言四条隆季(善勝寺長者、息子隆房が清盛の婿、成親の兄)、権中納言藤原邦綱(くにつな、重衡の妻の父で、清盛養子清邦(きよくに)の実父)、同花山院(かざんいん、藤原)兼雅(かねまさ、清盛の婿)、参議藤原家通(いえみち、清盛の養子)、同藤原実綱(さねつな、清盛の姉の前夫)、同藤原頼定(よりさだ、経宗の養子)がいる。

彼らが親平家の立場にあったおもな公卿たちで、ほかに姻族なら近衛基通がいた。父基実の妻が徳子の一つ違いの異母妹盛子で、本人の妻も清盛娘の寛子(かんし)である。その他平家に親しいめぼしい公卿として、前太政大臣花山院忠雅(ただまさ、兼雅の父)、忠雅の弟権中納言中山忠親、忠雅と平教盛双方の女婿でもある源通親(みちちか)らがいる。親族・姻族といってもむろん政略結婚によるものである。

(略)

朝廷・院御所を中心とした政務や儀式一般(公事くじ)、行事、官職などの故実に通じていること、またその人を「有職」という。公卿議定はその 「有職」 の議政官と、とくに許された前官者のみが、そのつど指名されて参加した。平家の公卿はどう見ても「有職」とはいえないし、前官者や非参議(ひさんぎ、三位以上の位を有するが議政官でないもの)が多く、議政官は多い時でも五人しかいなかった。治承三(一一七九)年正月時点で、内大臣重盛・権大納言宗盛・権中納言頼盛・参議教盛の四人に、権中納言時忠を加えての五人である。ところが重盛ですら公卿議定に参加した形跡がない。序章で、平家の公卿たちは並び大名の域を出なかった、といったのはそういう意味である。それに対し前記した平家親族の多くは「有職」で知られ、各種の公卿会議にメンバーとして招集されていた。

(略)

幾重にも構築された家格の壁をまたたくうちに飛び越えてきた平家には、それだけの能力を養う準備期間などあるはずもなかった。婚姻を政略に利用するのを、古めかしく姑息な政治手法と考えるむきがある。しかし平家公卿たちが、国政を審議する各種の公卿会議に参加する資格も識見も認められていない以上、彼らに代弁してもらうほかに、どんな方法があったというのだろう。また彼らから教えてもらわなければ、公卿としての最小限の儀式作法すらこなせなかったに違いない。

(「平家の群像」)

12月26日

・平時子、従ニ位に叙任。

この頃より、次第に平氏と後白河との関係が冷却化。後白河院は専制体制確立のため対立意識が強まる。寺院勢力も反平家へ傾く。


つづく



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