安元3/治承元(1177)
5月4日
・後白河法皇、天台座主明雲の邸宅に検非違使を派遣して譴責し、山門の悪僧の張本を差し出すように命じる。
5月5日
・天台座主明雲(63)、朝廷の法会・講論への出席停止。
師高・師経の兄弟の父藤原師光(西光法師)が、後白河院に天台座主明雲が延暦寺大衆強訴の黒幕であると訴えた為(加賀に天台座主の寺領があり、国司師高がこれを廃止したので、これを恨んで訴訟を起こしたと讒奏)。院近臣側の反撃(延暦寺に打撃を与え、これと脈絡を通じていた清盛をも間接的に窮地に追い込もうとした)。
「座主流」(ざすながし、「平家物語」巻2)
5月10日
・天台座主明雲の所領を没官。
5月11日
・後白河法皇、延暦寺座主明雲に強訴の責任迫り解官・伊豆配流。鳥羽上皇7宮覚快法親王(44、母は美濃局)、天台座主宣下。
5月13日
・延暦寺の大衆が蜂起したとの風聞。
5月13日
・明雲身柄確保の為、検非違使平(山木)兼隆を派遣。この日、大衆は、神輿を山上の講堂に上(のぼ)せて軍陣を張る動きを見せる。
15日、延暦寺の僧綱が京極寺に集結し、院に群参して明雲の所領没収と配流の処分を行わぬように求めた。顕宗(けんしゆう)の棟梁であり、天皇の経師(きようじ)、法皇の受戒の和尚である明雲の罪科を免じてほしいという内容であったが、法皇は許さなかった。
17日、比叡山、平清盛へ手紙。
20日、明雲について公卿僉義。明雲の罪科の議定は、院宣で太政大臣が上卿(しようけい)に指名されて行われ、配流と決定される。
21日夜、明雲、白河御坊から伊豆へ出発。一切経谷(粟田口辺)の延暦寺別院に泊。
5月23日
・朝、悪僧祐慶が先導、延暦寺大衆が共鳴し、明雲奪回の為に坂本十禅師前で僉義。
僧兵、護送中の明雲を近江栗津で奪う。
後白河はなお延暦寺への圧迫を断念せず、院宣に叛いた罪と称して、明雲の召喚を指令し、延暦寺の末寺・荘園の没収を意図して諸国司にその調査を命じ、また比叡山を武力によって攻撃することを平経盛(清盛弟)に命じた。
これは、平氏の軍兵と延暦寺の僧兵とを戦わせ、両者の間に敵対関係の生まれるのを助長しようとする策略。平氏にとっては、もともと親平氏立場にある明雲を擁する延暦寺の衆徒と戦端を開いて、これまでの協調を破る理由もなく、またこれが得策でないことも明らかである。清盛としては、延暦寺の前に法皇以下、その近臣たちが窮地におちいるのを期待し、これを傍観していたかった。
この清盛の思惑を充分に承知していた経盛は、法皇の命令に応じないで、出兵を拒否。
一行阿闍梨之沙汰(いちぎょうあじゃりのさた、「平家物語」巻2):
明雲は驚いて、衆徒に山に戻るよう説得するが、結局衆徒に従う。衆徒は御輿に乗るように言うが、明雲は流人なので歩いて上ると答える。西塔の僧侶で戒浄坊の阿闍梨祐慶が、暫く睨み、そういう御心だからこんな目に会うのだ、さっさとお乗りになるべきと云うので、明雲は恐ろしさで急いでこれに乗る。衆徒は、東塔へ向かい、大講堂に輿を据え、流罪の方を座主につけてよいものかと評議。戒浄坊阿闍梨が又、「尊い座主が罪もなく罪を蒙るのは、比叡山京都中の憤慨するところであり、興福寺・園城寺の嘲りを受けるところではないか。この祐慶が首謀者に名指されて流罪・死罪にもなろうが、それはこの世の面目、冥途の思い出である」と言う。衆徒は、前座主を東塔の南谷、妙光房へ入れる。
5月27日
・平清盛、福原から入洛。
28日、参院。後白河法皇、平清盛に比叡山追討承諾させる。
比叡山の東西の坂を固めて山門を攻めることと定まった。それにともなって京中で兵器を帯びて往来する輩を搦め取ること、山門の所領を諸国の国司に注進させること、近江・美濃・越前の国内の武士を注進させ官兵に繰り込むことなども定められた。
「人伝に云はく、昨日禅門相国院に参り御対面ありと云々。大略東西の坂を堅め、台山を責むべき議、一定了んぬと云々。然れども入道内心悦ばずと云々。」(「玉葉」5月29日条)
つづく
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