安元2(1176)
6月
・この月、建春門院平滋子(35、高倉天皇の生母、時子の妹)が病気になり、病状は次第に悪化。6月18日、病の平癒をこめて非常の赦が行われ、父平時信の託宣があったということで、その菩提を祈るために十楽院(じゆうらくいん)の時信の墓所に精舎が建てられる。24日には大般若経を写経して供養が、28日には千僧読経が法勝寺で行われるが、はかばかしい効果はなく、30日に清盛が上洛してきた時に伝ってきたのは、もはや絶望の報であった。
6月13日
・高松院姝子内親王(36)、没。
7月
・後白河院の寵臣の関係者、美濃で日吉社神人と衝突。
7月8日
・建春門院平滋子(35、高倉天皇の生母)、法住寺殿で没。後白河院、平家から離れていく。10月、後白河法皇の2人の若宮を高倉天皇の猶子とする(高倉・徳子の子供ができないための措置)。
平家と後白河を結んでいた女院の死は、両者の関係に不安定な要因をもたらすことになる。
『愚管抄』は「ソノノチ院中アレ行ヤウニ過ル」と記し、『平家公達草紙』は次のように語る。
世の中も女院おはしましける程静かにめでたかりけるを、隠れさせ給ひては、なべて天の下嘆かぬ人なかりけるを、誠に其後よりぞ世も乱れ、あさましける。
建春門院の死後に世は乱れるようになったと語っており、その死が大きな影響を与えたことは疑いない。
根本は、皇位継承者の問題(皇位継承者指名権の問題)にあった。
徳子入内以来5~6年経っても懐妊の兆しがなく、皇位継承の目途が立たないままで、このままでは王家の危機に瀕することになる(高倉16歳、徳子22歳)。
しかし、徳子が男子を生んだとすれば、皇位継承者が平家の皇子に限定されることになり、後白河の権力は空洞化する。
この矛盾の中で、高倉天皇の存在は著しく不安定になる。
7月17日
・六条上皇(13)、没(誕生:長寛2(1164)/11/14)。79代天皇。
8月
・夏頃、涌泉寺合戦。
加賀守藤原師高の弟師経、兄の代官(加賀目代)として加賀に赴任。後白河院側近の父師光の権勢を背景に国衙権力回復を狙い、東側に群在する白山中宮8院の一つの鵜川(小松市)の涌泉寺に検注を試みる。
師経側と国使の入寺に抵抗する寺僧側との主張が対立、武力衝突となり、師経は涌泉寺に乱入、僧坊全てを焼き払う。白山3社8院の大衆は師経館を包囲するが、師経らは既に京に逃げ帰る(「俊寛沙汰 鵜川軍(うかわのいくさ」(「平家物語」巻1))。
白山側は、師高・師経兄弟処罰を本山延暦寺へ訴える。延暦寺からの返事は消極的。翌安元3(1177)年2月5日、白山衆徒、武装して出発。
・高倉天皇、天台座主明雲を師に法華経書写。
8月15日
・嵯峨に隠れるていた小督、源仲国と高倉天皇の説得により宮中へ戻る。
9月19日
・九条院藤原呈子(46)、没。
9月28日
・藤原俊成(63)、重病に臥し出家して釈阿と号す。子の定家の面倒をみれなくなる。この頃より、定家(15)は和歌の勉強を始める。
10月
・伊東祐親嫡男河津祐通、所領争いで工藤祐経に暗殺される。後の曽我兄弟仇討の原因となる。
・平徳子、平清盛・平家一門と厳島参詣。
・高倉天皇、後白河院の皇子2人を猶子にする。
一〇月二三日、後白河の第八皇子が密かに天皇の住む開院内裏(里内裏)に参った。それから一週間経たない一〇月二九日、今度は別の後白河皇子(第九皇子)参内の噂が流れ、翌月二日時忠につれられて姿を見せた。高倉天皇はいずれの皇子も猶子(養い子)にしている。
高倉が後白河の皇子二人を猶子にしたのは、徳子に皇子が生まれない事態を予想し、皇嗣の候補として準備したのである。それは時忠・親宗という二人の兄弟が関与していたことからもわかるように、亡き建春門院も同意していたことで、もちろん後白河の強い希望だった。親宗は、後白河の近臣として知られた人物だからである。滋子の死により、院・平家の対立という奔流をせき止めていたダムが決壊し始めた。
(「平家の群像」)
12月5日
・藤原成範(なりのり)・平頼盛の二人の院近臣が中納言に任じられる。
蔵人頭に左中将の藤原定能(さだよし)と右中将の光能(みつよし)が任じられる(兼実は「希代」のことと書く)。
候補には何人かいた。左中将の藤原雅長は「重代の家」の生まれで才智に溢れ、年は40になっていて位階も上臈であったが、定能が「院近臣」であることによって越えた。平知盛(左中将、時子の次男)は「入道相国(清盛)最愛の息子」であり、当時「無双の権勢」を誇っていて位階も上臈であったが、これも光能が「院近臣」であることによって越えた。他にも、源通親や藤原頼実など、位階は下臈でも天皇から禁色(きんじき)の着用を許される特権を有したり、有能の聞こえのある人物がいながら、この2人が任じられたことで、「希代」とされた。
つづく
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