2022年6月15日水曜日

〈藤原定家の時代026〉承安5/安元元(1175)7~12月 蓮華王院の鎮守の総社祭 兼実の右大臣家歌合(御子左家は未だ召されていない) 重盛大納言 定家(14)侍従となる   

 



承安5/安元元(1175)

7月2日

・九条兼実主催の和歌会。3、7、8、23(藤原清輔・源頼政以下10余)、閏9月15、17、26、29、11月5日。

7月28日

・「安元」に改元。疱瘡流行のため。

9月12日

・京都に大風。

9月23日

・高倉天皇、身内側近を集めた聯句の会を催す。

安元元(一一七五)年九月二三日、高倉天皇が藤原実宗(さねむね)・長方(ながかた)・泰通、平重衡、藤原隆房・兼光(かねみつ)・光雅(みつまさ)と六位蔵人を御前に呼び寄せた。この集まりを記録した長方が、いまだ聯句(れんく)の座に召されたことはなかったといっているので、聯句(二人以上の者が交互に句を詠んで、一編の漢詩をつくること)を名目の集いだったのだろう。この時、中宮権大夫の平時忠が食物を運ばせ、それぞれの産前に据えた。以下酒宴になり、朗詠・雑曲(雅楽以外の音曲)・読経などがあり、座興としての即興の舞が二度三度に及び、夜たけておのおの退出した。席上時忠が酔っぱらっていい気持ちになり何度も舞ったので、長方は「頗る軽々なり」とあきれている(『禅中記抄(ぜんちゅうきしょう)』)。

長方は蔵人のなかで自分一人が「近臣」ではないといっているが、参会者は実宗と長方がともに蔵人頭、兼光・光雅は五位蔵人である。天皇の秘書官たる蔵人が天皇の身辺に仕えるのは当然なうえに、泰通・隆房は後世高倉天皇の五人の近習のなかに数え上げられる人物。時忠・重衡は后の徳子を支える中宮職の長官と次官であるだけでなく、時忠は天皇の「外舅(がいきゅう、母方の伯父)」である。つまり天皇の身内側近ばかりの集まりだった。重衡は天皇の従兄であるとともに妻の兄弟、そのなかでは一番年が近い。つまり天皇の身内中もっとも近しい若者だというので呼ばれたのであろう。

(「平家の群像」)

閏9月7日

・後白河院(49)・建春門院(34)、熊野参詣より還向。

10月3日

・蓮華王院の鎮守の総社祭が初めて行われる。

公卿・殿上人・僧綱など13人が院宣によって馬長(うまおさ)を進めており、『玉葉』はその風流過差(かさ)が未曾有のもので、国家の費(つい)えは譬(たと)えにとるものはないと批判するかたわら、法皇がこれを七条殿の桟敷で見物し、洛中の貴賎で見物しない人はいなかったと記している。相撲(すまい)や神楽も行われ、舞の音曲や笙に相違があったことを藤原隆季が咎めたという一幕もあった(『百錬抄』)。

この鎮守の総社には伊勢を除く八幡社以下の21社や紀伊国の日前宮(ひのさきのみや)、尾張の熱田、厳島、越前の気比宮などが勧請されており、その正体の絵像が描かれて神体とされたが、目前宮と熱田社には本地(ほんぢ)の所見がなく、鏡が用いられている(『百錬抄』)。春日社に対し、この時に正体の本地の注進が命じられているのはこのためである(『春日社旧記』)。22社による護持の体制から、さらに日前宮、熱田、厳島、気比宮などをも組み入れた護持の体制が目指されたことがわかる。

10月10日

・右大臣九条兼実、「右大臣家歌合」を催す。小侍従参加。

「申刻以後雨下る。今日、密々和歌を講ず。大弐重家卿已下、先度会する者皆以て参入す。清輔朝臣之を判ず。[作者を隠し之を合すなり]、題三首、鐘報ののち分散す。はなはだ興あり。」(「玉葉」)

「先度会する者」とは、前回の閏9月29日の和歌会に出席した「季経朝臣已下常に祗候する男共六七許りの輩」。参加した歌人は、六条藤家から大宰大弐藤原重家、季経、経家、頼輔、基輔、清輔。清和源氏から源頼政、仲綱、丹後局。常磐三寂の寂念。藤原隆信。「歌林苑」執行俊恵法師、道因法師など(高位高官は見えない)御子左家の俊成・定家は未だ九条家に召されていない。兼実はこの年7月以後内々和歌を楽しむ記録が7回程ある。治承2年(1178)には3月20日からほぼ10日置きに10回、毎回2題各々5首の100首会を催す。

10月11日

・後白河院、恒例の福原での千僧供養(14日)に出席するために清盛の福原別荘に出かける。15日、京に戻る。

11月10日

・藤原師長、内大臣となる。2月25日に亡くなった源雅通の跡。

6月10日の段階で兼実は、家の生まれや才能、権勢の門に身を入れていないこと、天皇や法皇の側近くに仕えて雅遊に奉仕していることなどから、藤原師長こそが内大臣にふさわしいと指摘しつつも、「無双の権勢」を誇る重盛が任じられるかもしれないことに危惧を示していた。しかし噂通りに師長が内大臣となり、その跡の大納言に藤原成親、さらにその跡の中納言に源資賢が任じられ、法皇の芸能の相手が順調に昇進した。

11月20日

・卯の刻(午前6時頃)、姉小路大宮(神泉苑の東北)にある東寺僧正禎喜の壇所より失火。火は、三条油小路の高倉天皇の閑院内裏(里内裏)に及び、内裏消火のため近隣の庶民の小屋を破壊せよとの指令が出る。庶民は石礫で抵抗。検非違使別当頼盛らが出動、抜刀してこれを鎮める

・・・・・裏の北垣・南の小屋等(油小路面の西の辺り)、北より始めて五六宇(軒)ばかり、下人らを寄せ、破却せしむる所なり。その南、左兵衛尉則清が宿所、平尉(康頼)(検非違使尉平康頼)破却せしむるの間、対捍(たいかん、抵抗)を致し飛礫(ひれき、石つぶて)を放つ。

右兵衛督(かみ)(頼盛卿)(検非違使別当長官平頼盛)車に乗り、御共(おとも)の衛府(えふ)らを以て同じく相ひ副へらる。その間、平尉が郎等ら宅中において太刀を抜きしけつ歟(か)、退出のところ、右兵衛督が侍(さむらい)ら、犯人の由を存じ左右(そう)なく搦め取り了んぬ。右衛門尉平有頼が男〈息子)右衛門太郎、かの郎等に抱きつくの間、頭を刃傷せらると云々。闘乱広博(こうはく)におよぶべしと雖も、無事炎上消え了んぬ。・・・・・仍(すなわ)ち参院(後白河)〈蓮花(華〉王院に御参籠なり〉。北面の近習藤式部大夫峯綱(後白河の男色相手)を以て子細を申し入れ了んぬ。くだんの郎等らが次第誤らずと雖も、之を刃傷有る歟。誡め有るべきの由、仰せ下さる。・・・・・

11月28日

・平重盛、大納言となる。この頃、後生弔いに宋の育王山の僧に1千両、皇帝に2千両の黄金を贈る。

12月8日

・平資盛、正五位下に叙任。

12月8日

藤原定家(14)、侍従となる。父俊成が右京大夫を辞任して、定家の侍従就任を申請(定家への大きな期待)。兄の成家が八条院の御給によってすでに侍従に昇進していたことから、俊成は自分の官職を辞して、定家にも官職を与えようとしたもので、もはやこれ以上の出世は望めぬことからの配慮が働いたのであろう。

この頃の政界は、後白河院と平氏を中心に動き、徳大寺家や八条院は傍流。定家の出世の糸口が見えない状況。後白河院が和歌に興味がないのも俊成・定家父子には逆風。

12月24日

・地震あり。

12月29日

・後白河院側近藤原師光(西光入道)の子師高、加賀守に任じられる。従来、加賀守は、藤原氏の中でも平清盛に近い一門が占めていた(後白河院が、平家に一矢報いる)。師高は、弟師経を加賀目代(国司代理)として派遣。平有盛、従五位下に叙任。


つづく

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