2022年6月25日土曜日

〈藤原定家の時代036〉治承2(1178)1月~5月 宗盛正二位 大雪の朝の維盛と忠親 重盛(42)内大臣辞任表明(不許可) 俊成、兼実の和歌の師匠となる 宗盛権大納言 京都大火(次郎焼亡) 中宮徳子懐妊      

 



治承2(1178)

この年

・藤原俊成、初めて九条兼実の百首会に招かれる。3/20~6/29『右大臣兼実家百首』披講

・藤原定家(17)、姉八条院按察の夫藤原宗家の猶子となる

1月

・平師盛、従五位下・若狭守。平経正、丹後守兼任。平経俊、従五位下・伊賀守。藤原忠清(景綱の子)、豊前権介に任命。

1月4日

・平宗盛、正二位叙任。

1月7日

・寅刻、彗星巽方に出現。

1月8日

・法勝寺の修正会(しゆじようえ)

1月20日

・右大将平宗盛(31)、延暦寺衆徒の蜂起により福原へ下向。

後白河が2月10日に三井寺で公顕を大阿闇梨にして伝法灌頂(かんじよう)を受けることになり、2月1日に平等院に御幸する計画を立てたところ、それに反対する延暦寺の衆徒が蜂起し、三塔会合(さんとうえごう)により末寺荘園の兵士を集めて園城寺を焼くという噂が立った。そのために宗盛が福原に赴き、清盛と協議を行った。結局、山門の大衆の焼き討ちを恐れ、清盛の反対もあって御幸は中止となった。

1月23日

・大雪の朝の維盛と忠親

『山槐記』治承二(一一七八)年正月二三日条によると、その大雪の朝、権中納言の中山(藤原)忠親(ただちか)は鞍馬寺参詣のため、賀茂別雷社(かもわけいかずちしゃ、上賀茂神社)の東、「美土呂(みとろ)坂」を越える道を北上した。峠にさしかかって維盛率いる狩の一団と出逢う。忠親の証言では、馬上の維盛は、折烏帽子をかぶり直垂を着て、小袴(指貫さしぬき)に行騰(むかばき、鹿・熊・虎などの毛皮で腰から脚の覆いにするもの)姿であった。前後には騎馬の侍が五人あり、また十余人が坂(峠)を北に下った幡枝(はたえだ)堂で下馬し休憩していた。猟犬も一五匹連れている。聞けば、明け方鞍馬の入り口である市原野で狩をしたという。維盛は忠親を見て下馬し、忠親も乗っていた輿(こし)を地面に降ろさせた。維盛が力者(りきしゃ、力仕事をする雑役の者)を貸してくれたので、深雪にもかかわらず無事峠を越えている。(「平家の群像」)

忠親は48歳の従二位、維盛は20歳で従四位上、平家に親しい親子ほど年の違う年長の公卿に敬意を表した。

2月5日

・延暦寺僧徒の蜂起により、後白河法皇(52)の園城寺行幸を中止。

2月8日

・平重盛(42)、内大臣を辞任を表明。不許可。6月10日に辞表返却(中宮徳子の解任による)。

2月20日

・権中納言宗盛(重盛の異母弟)、大納言になり、ただちに内大臣になるという噂が世間に広がる。4月5日、権大納言に任命。

3月

・賀茂参詣途中の近衛基通と皇太后宮権大夫平経盛の郎等同士が喧嘩。平経盛が陳謝。

3月15日

・賀茂別雷神社で神主重保主催による「別雷社歌合」。歌人60人、判者は入道三品釈阿(俊成)。

藤原定家(17)、3首の和歌を詠む。他の貴族と同様官位昇進を祈願、やがて幸運が訪れる。①俊成が九条兼実の和歌の師匠となる。②翌年3月、定家が内の昇殿を許される。

この年、定家(17)、姉八条院按察の夫藤原宗家の猶子となる。

3月20日

・九条兼実、この日よりほぼ10日おきに10回、毎回2題各々5首の百首会を催す。

6月23日、俊成、歌道の長者たるにより兼実に招かれる。

4月5日

・平宗盛(32)、権大納言に任命。

4月8日

・延暦寺衆徒・鞍馬寺僧200人、大谷の風早禅師の房を襲撃(「百練抄」)。延暦寺と末寺周辺で争い絶えず。

4月24日

・京都大火。七条東洞院辺りから出火、七条大路沿いに朱雀大路まで延焼。前年(安元3年1177)4月28日の大火を「太郎焼亡」、今回の大火を「次郎焼亡」と名付けて語り草となる。

5月24日
・中宮平徳子(24)の懐妊の報。中宮権大夫平時忠が天皇に伝える。


つづく

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