2022年6月26日日曜日

〈藤原定家の時代037〉治承2(1178)6月~10月 清盛上洛 中宮徳子着帯の儀 成経・康頼鬼界ヶ島より召還(俊寛は赦されず) 

 


〈藤原定家の時代036〉治承2(1178)1月~5月 宗盛正二位 大雪の朝の維盛と忠親 重盛(42)内大臣辞任表明(不許可) 俊成、兼実の和歌の師匠となる 宗盛権大納言 京都大火(次郎焼亡) 中宮徳子懐妊 より続く

治承2(1178)

6月1日

・懐妊した中宮徳子の着帯の儀式の日取りが28日となる。

6月2日

・平清盛(61)、福原より上洛。翌日、後白河を訪問。

清盛の喜びは一方ならぬものがあった。

『愚管抄』が記すエピソード。

清盛は息子を儲けて帝の外祖父となって世を思うように執ろうと考え、様々に祈りを行っていた。中宮の母の二位時子が日吉社に百日の祈りを行ったのに、験がなかったを見た時には、「ワレガ祈ルシルシナシ。今見給へ祈リ出デン」(汝が祈っても験がない、見なさい、私が祈り出して見せよう)と語ると、安芸厳島に早船を造って月詣(つきもうで)を始め、60日ほど後に懐妊したという。

6月12日

・大膳権大夫泰親、追奏。坤方に星墜ちる。其體水精の如し。その尾2丈ばかり、中絶後7~8尺、光る。

6月17日

・安芸厳島神社に中宮御産平癒の奉幣を遣わす。

その詔は、厳島の神は社壇が海に開け、霊威を天下に施していて、代々の天皇もその鎮護を頼んでおり、その神徳を仰いで祈るところである、と称え、「無事の皇子の誕生によって天皇・朝廷が不動のものとなり、国家安穏・人民快楽がもたらされるようにしたまえ」、という内容。

6月19日

・天皇の猶子とされた仁操僧都(にんそうそうず)の娘を母とする後白河の皇子が、東寺の大僧正禎喜(ていき)の弟子となって出家させられることになり、内裏から禎喜の壇所に向かう。もはや2人も天皇の猶子は必要とされなくなった

6月19日

・中宮のお産の祈りとして千手供(せんじゆぐ)が母時子の沙汰で行われる。

6月23日

・藤原俊成、歌道の長者たるにより九条兼実に招かれる(「玉葉」)。前年(1177)6月に没した六条藤家の藤原清輔に代って、九条家の和歌会の指導者に迎えられる。

6月27日

・範子内親王(2、母小督局)、賀茂斎王に卜定。

中宮徳子、高倉が小督との間にもうけた皇女(範子内親王)とも猶子の関係をもっていた。徳子の腹でない高倉の子女が、徳子の猶子もしくは一門の養育という形で、平家の管理下に置かれていた。院政期では、院が天皇の後宮を差配することによって、皇子誕生の過程に介入し、皇位のゆくえも自ら決定するという皇位継承システムができあがっていたが、ここにきて藤原道長の時代に回帰したかのように、その実質を外戚の家(平家)が握る状況になった。

『平家物語』によれば、徳子に仕えた女房小督は双びなき美人で琴の名手。清盛の女婿藤原隆房に見初められたのち、高倉の寵愛を受けるが、婿2人を盗られたとする清盛の怒りを聞いて内裏を出、嵯峨野に隠れ住む。八月一〇日余りの月の夜、天皇の命を受けた源仲国(なかくに)は、小督の弾く「想夫恋(そうふれん)」の琴の昔を頼りに隠れ家を尋ねあて、連れ戻す。内裏の人目につかぬところに隠し置かれ姫宮を生むが、清盛の知るところとなり、尼にされたうえ追放されて、嵯峨野に住んだという(巻六「小督」)。

6月28日

・中宮平徳子の着帯の儀。重盛以下が出席し、宗盛の北の方が乳母として参入。諸神社への祈りは五条坊門富小路の厳島別宮でも行われ、厳島の本社には特別に清盛の沙汰でなされる。

閏6月17日

・後白河法皇、17ヶ条の新制発布。

南都北嶺の寺社勢力による反平氏包囲網が形成され、清盛が女婿高倉天皇を「玉」として取り込み、後白河との間に政治的綱引きが展開されている時期。後白河の鳥羽殿幽閉(政治的破局)に至る時期。

この年の公家新制中の寄沙汰に関する法に、「近年、諸社の神人・諸寺の悪僧、或は京中を横行して訴訟を決断し、或は諸国に発向して田地を侵奪す・・」とある。もとよりこの「決断」は、主観的一方的判断であろうと想像できるが、国家の法令が、「訴訟を決断し」と表現して怪しまない行為が、新制の対象としなければならぬほど一般的な事実として存在したことは、注目に値する。「沙汰を寄せる者」「沙汰を請取」ってこれを「決断する」者の関係が、中央権力の裁判と違った場で、しかも空間的にはその膝下たる「京中」においてすら成立していること、その事にこの頃の「裁判」の性格を考えるうえでの、重要な手掛りがある。

閏6月21日

・「右大臣家歌合」。

7月

・平清盛、六角堂に如意輪観音寄進。

7月3日

・中宮御産祈願の大赦により、流人藤原成経・平康頼(俊寛以外)を召還。翌年3月、鬼界ヶ島より帰京。

7月16日

・平宗盛の室、没。前月(閏6月)腫物が悪化、同月15日に出家。

7月18日

・後白河法皇、18ヶ条の新制発布。

8月

・「廿二番歌合」。歌人22人、判者顕昭。

・夏頃、藤原定家(17)、「長秋詠藻」書写。

9月20日

・延暦寺の堂衆と学徒、闘争

9月20日

・清盛の赦免状を持った使者、7月下旬に出発、この頃、鬼界ヶ島に到着。成経と康頼が赦され、俊寛は赦されず。

赦文(ゆるしぶみ、「平家物語」巻3):

この年正月7日東の空に彗星が出る。建礼門院(中宮)が懐妊するが具合がよくない。讃岐院、宇治悪左大臣頼長、新大納言成親、西光法師の死霊、鬼界が島の人々の生霊が取付いているという。清盛は、讃岐院には追号崇徳天皇、宇治悪左府には正一位を贈る。重盛は、中宮の苦み成親の死霊の為であり、これを宥める為にも丹波少将(成経)・俊寛・康頼法師の赦免を清盛に進言。しかし、清盛は、俊寛だけは赦さず(自分が世話をしてやって一人前になったのに、けしからぬ振る舞いをした)。

足摺(あしずり、「平家物語」巻3):

清盛の使者の円左衛門尉基康が届けた赦免状には、俊寛僧都の名前はなく、俊寛は舟に乗せてくれるように繰り返し懇願するが聞き入れられず、俊寛を残し成経・康頼入道は出発。

10月

・中宮徳子の安産のための祈り

六波羅の御所に勧請(かんじよう)した厳島別宮では10月14日に神楽が清盛の沙汰で行われ、17日には西八条に勧請した別宮で知盛の沙汰により行われ、さらに清盛は新日吉社(いまひえしや)で19日に里神楽(さとかぐら)を行って無事の出産を祈った。神のみならず仏に祈ることも行われ、16日から公顕が尊星王護摩(そんじようおうごま)を行うと、その雑事は清盛が沙汰し、25日に孔雀経法(くじやくきようほう)を守覚法親王(しゆかくほつしんのう)が始めると、清盛は中門南廓で聴聞している。

10月4日

・後白河法皇(52)に命じられて、平清盛、延暦寺と学徒の争いで学徒側を支援。

10月27日

・維盛、「嫡子」と看做されるようになる(『玉葉』)。

鹿ヶ谷事件で母経子は兄成親が抹殺され、母方実家の後ろ盾を失った清経は、ここで失速。清経の後退に力をえて相対的に維盛が浮上し、「嫡子」とみなされるようになった(『玉葉』治承2年10月27日条)。だが正妻がいなくなっても使用人が正妻に昇格することはない。正妻の座が当面空白になるだけである。『玉葉』の記事にもかかわらず、この「嫡子」が法的な意味でのそれかどうか疑問は残る。経子は、承安元(1171)年以降記録類から姿を消す。重盛の没後まだ存命だったようだから、やがて出家したと推測できる。


つづく


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