2022年6月11日土曜日

〈藤原定家の時代022〉承安3(1173)5月~12月 南都山門闘争(6~11月) 建春門院御願の最勝光院の落慶供養  

 



承安3(1173)

5月2日

・御所で鵯合(ひよどりあわせ)が行われる。法皇に仕える公卿や殿上人・北面上下臈・僧・入道などの多くの人々が集って、左右に分かれて善をつくし美をつくして争われ、その費えは数え上げられないとまで称された。左方の頭人に重盛、右方の頭人に藤原邦綱が選ばれている。

6月6日

・関白基房(30)が故基実室(清盛の娘盛子)を妻に迎えるとの風聞。

「関白、新妻を迎へらるべしと云々。入道相国の娘(世に白河殿と号す。故摂政殿の室家なり)、世間遍(あまね)く謳歌(おうか)す。実否を知らざるものなり」(『玉葉』)。清盛が娘の白河殿盛子(もりこ、基実の後家)の婿に関白基房を迎える噂が流れた。

清盛が、平氏とは疎遠な関係にあり、法皇の近臣としてその政治を助けていた基房を取り込もうとしたとの噂だが、基房は2年前の承安元年8月10日に前太政大臣の花山院忠雅の娘を迎えており、前年6月20日に師家を儲けていた。この噂は摂関家と平氏との微妙な関係を浮き彫りにしていたことになる。

6月10日

藤原光能は、法皇の祈りのために等身の焔魔(えんま)天像を造って導師に公顕を迎えて供養。光能は法皇の近くに仕えて伝奏を勤め、承安元年12月に中将に任じられた時には「驚くべし」と評された近臣。同じく伝奏を勤めた高階泰経(やすつね)や藤原盛隆らもいずれも知行国を一国与えられ、法皇に奉仕していた。

6月12日

・平時子(49)の持仏堂供養。

6月21日

・興福寺、多武峰坂下の家々を焼払う。24日、多武峰の堂塔を焼払う。

山門衆徒が大和の七大寺の所領を要求したことに憤激した興福寺の衆徒が、大和にある山門末寺の多武嶺を攻めて焼き討ちをはかり、大織冠(だいしようくかん)藤原鎌足の御影堂(みえいどう)までも焼いてしまう。

翌7月から8月にかけて、延暦寺・興福寺ともに僧兵を動かして決戦に及ばんとするほどに対立を激化させた。

8月

・清盛・時子、厳島神社に能楽面を奉納。平盛国も奉納者に加わる。

8月15日

・「三井寺新羅社歌合」。判者藤原俊成。

8月15日

・皇后藤原育子(28)、没。

9月

・八条院領と民部卿三位局・惟方卿弁局が相伝してきた所領合わせて16ヶ所、弁局により興善院に寄進。

八条院は美福門院得子と鳥羽法皇の間の女子で、同院領は最大の天皇家領荘園群の一つ。

興善院は鳥羽上皇ゆかりの安楽寿院の末寺、京都九条にあり、藤原惟方の父顕頼が建立して寄進。顕頼・惟方の父子は鳥羽院・美福門院の身辺に奉仕した人物。

民部卿三位局は顕頼の娘、弁局も惟方の娘で、両者はオバ・姪の関係にあり、両人とも八条院の女房。八条院庁は、寄進後もこれらの荘園支配権限は弁局の子孫にあると宣言。

敦賀郡気比荘は平安末期に八条院の支配を受ける。実際には、気比荘は三位局や弁局が相伝してきた所領群に含まれていたらしく、寄進後も、荘園支配権限は弁局子孫にある。支配関係では、八条院が気比荘の本家で、弁局の立場は領家(預所)職。おそらく、藤原惟方が越前守であった永治年間(1141~42)頃、入手し、主人で越前分国主でもある美福門院に寄進し、支配の実際を預かる形になったもの。領家職は娘弁局に伝わり、同荘が名目上八条院領から興善院領に管理替えとなる際、彼女の権利が改めて確認されたということ。尚、河合系越前斎藤氏の平泉寺長吏である広命の兄範重は気比社司になる(越前斎藤氏の敦賀郡への浸透)。

10月16日

・検非違使藤原師高の捕まえた強盗10人が法皇の桟敷の前を渡される。

10月21日

・建春門院御願の最勝光院の落慶供養。

後白河院が出家した嘉応元年(1169)の4月に皇太后平滋子に院号宣下(建春門院)があり、法皇はこの建春門院の御願として最勝光院を造営。最勝光院は、はじめ法住寺に付属した御殿であり、承安2年(1173)2月に上棟、このとき法皇は女院と同列で儀式に参加している。

そしてこの月(3年10月)に落成供養が行われた。これは仏の供養という法皇の崇仏事業の一つでもあろうが、法皇の寵妃たる女院への奉仕の意味も多分にあったためか、廷臣たちの寄進をも含めて、全国にわたる多くの荘園が、最勝光院領として付せられることとなった。藤原成親の信濃国塩田荘も最勝光院に寄進されている(『吉記』)。

供養の華麗と過差は先例に超過するものであり、九条兼実は法勝寺供養や蓮華蔵院の供養の例に倣って染装束を着用して臨んでいる。それが終わって法皇は熊野に詣でる。

11月5日

・南都衆徒、春日社の御榊を奉じて宇治に発向。11日、興福寺の大和の所領没収。

6月の多武峯焼打事件に関して、興福寺の別当の任が解かれ、焼失の張本の召進をめぐって衆徒と朝廷とが交渉するなか、10月29日に張本の覚興(かくこう)が流されたことで、興福寺の大衆が蜂起し、6日に宇治までやってきて、山門座主の配流や覚興の召返し、七大寺の所領の奪取を企む山僧の張本の禁獄を求めた。

これに対抗して、山門の衆徒が宇治に発向する姿勢を見せたことから天下騒動となったが、11日には興福寺の衆徒が分散させられ、大和の一五大寺領の没官停廃止(興福寺の大和の所領没収)が宣旨(ぜんじ)で出されたことで、興福寺の衆徒は何ら得るところなく騒動は終結。その没官の取り消しの宣旨が出されたのは翌4年正月18日(『平安遺文』)、大織冠の御影が新造の聖霊院(しようりよういん)に移されたのは28日のことである。

11月18日

・清水寺、焼失。

12月26日

・六波羅蜜寺、焼失。


つづく

0 件のコメント: