建久5(1194)年
6月14日
・頼朝の若君(頼家)が岩殿観音堂で通夜。この間に相撲があり、御供の壮士を集めて競わせる(『吾妻鏡』)。
6月15日
・この年4月、六代丸(維盛の子、出家して妙覚)は文覚の書状を携えて鎌倉に入り、大江広元を介して異志なき旨を申し述べる(4月21日)。頼朝は、妙覚を処罰せず、暫らく関東に止住するよう指示。この日、頼朝は妙覚禅師に対面し、もし異心がないのなら然るべき寺の別当に補そうと告げる。
「一寺の別当職に補すべきの由仰せらると。」(「吾妻鏡」同日条)。
6月28日
・頼朝、東大寺復興がはかどらないので、担当御家人たちを催促。材木は佐々木高綱に周防ので伐採させる。ニ菩薩や四天王像などは御家人に造立を割り当てる。観音菩薩は宇都宮朝綱に、虚空蔵菩薩は藤原親能に、四天王の一つ増長天像は畠山重忠に、持国天は武田信義に、多聞天は小笠原長清に、広目天は梶原景時に割り当てられる。また戒壇院造営は小山朝政・千葉常胤にが命ぜられている。
7月5日
・天台(延暦寺)衆徒、「入唐上人」栄西や在京の能忍上人らが達磨宗(禅宗)を建立したとの風聞あり、停止するよう調停に訴え。これが認められ、停止の宣旨が下る(布教禁止)。
能忍:
禅宗に関心を持ち、独力で悟りを開き摂津水田(吹田市)に三宝寺を開創。無師独悟を批判され、文治5年(1189)弟子2人を入宋させ阿育王山の拙庵徳光の許に送り嗣法を許される。「在京上人能忍」と称され(「百練抄」)、京都で布教活動を行う。能忍は弟子を通じて拙庵から受けた初祖達磨~6祖慧能(禅が中国で盛んになる基礎を作った人物)の舎利をもとに達磨宗を強調。日蓮「開目抄」で、念仏宗の法然に並べて禅宗の大日(能忍)を挙げる(禅僧としての活動は栄西以上)。
7月14日
・永福寺境内に伽藍建立、この日棟上げ。頼朝が現地で監督し工(たくみ)は禄を与えられる。
7月20日
・一条能保の飛脚到着。朝廷は、公田を掠領したとの下野国司の訴えにより宇都宮朝綱らを配流する官符を下したとのこと。
「下野の国の住人朝綱法師、公田を押領するの過に依って、罪名を勘がうべきの由宣下せられをはんぬ。今日先ず問注を遂げんが為その身を召さるると雖も、詔使を拒み参対せず。いよいよその科を増すものなり。」(「玉葉」同16日条)。
「子の刻に朝綱法師罪名の勘文を進す。勘状に任せ、朝綱法師を遠流に処すべし。事の由を奏す。宣下すべきの由これを仰せらる。」(「玉葉」同19日条)。
「・・・左衛門の尉朝綱入道、国司の訴えに依って遂にその過有り。去る二十日配流の官符を下さる。朝綱は土佐の国、孫弥三郎頼綱は豊後の国、同五郎朝業は周防の国なり。また廷尉基重(右衛門の志)朝綱法師引汲の科に依り、洛中を追放せらると。この事将軍家頻りに御歎息、兼信・定綱・朝綱入道はこれ皆然るべき輩なり。定綱が事は山門の訴え是非に能わず。今朝綱が罪科は公田掠領の号を去り、関東の為に頗る眉目を失うの由と。則ち結城の七郎朝光を以てこれを訪わしめ給うと。」(「吾妻鏡」同28日条)
7月23日
・北条義時(32)、願成就院破損修理のため伊豆に下向。
7月29日
・頼朝・政子の長女大姫の健康状態悪化。『吾妻鏡』は義高を思慕する大姫の心労というように「美談」仕立てにする。
「将軍家の姫君夜より御不例。これ恒の事たりと雖も、今日は殊に危急なり。志水殿有事の後、御悲歎の故に日を追って御憔悴す。断金の志に堪えず、沈石の思いを貽し給うか。且つは貞女の操行と。衆人美談とする所なり。」(「吾妻鏡」同日条)。
「姫君の御不例復本し給うの間、御沐浴有り。」(「吾妻鏡」8月18日条)。
8月
・良経・慈円『南海漁夫北山樵客百番歌合』一旦成立。最終的な成立は建久6年3月以降
8月1日
・この日から石清水八幡宮の放生会の日まで殺生を禁断するよう朝廷が命じる。
8月8日
・頼朝、相模の日向山(行基が建立した薬師如来の霊場)参詣。大姫の治病を祈願。頼朝は騎馬で水干(すいかん)。先陣随兵の筆頭に畠山重忠。先陣に里見義成、頼朝の御後に足利義兼・山名義範。大江広元、下毛利荘で頼朝に駄餉(だこう)を献上。頼朝は深夜に戻る(「吾妻鏡」)
8月11日
・藤原定家(33)、中宮任子和歌会に参加
8月14日
・頼朝・政子の長女大姫の縁談の相手、一条高能(たかよし)が鎌倉着。高能の父能保は、鎌倉と京都をつなぐ親幕派の重要な人物で、中納言、妻は頼朝の妹である。その点では大姫の相手として不足はない。
だが、「御台所(政子)ノ内々ノ御計」も失敗に終わる。「シカルゴトキノ儀ニ及パパ、身ヲ深淵ニ沈ムベキ」(「このようなことは、身を深い淵に沈めるようなもの」)(『吾妻鏡』建久5年8月18日)と言い張る大姫の強い意志で、この縁談は沙汰止みとなった。
8月15日
・鶴岡放生会。舞楽あり。一条高能の参加。翌日、いつも通り馬場で流鏑馬。
8月15日
・藤原定家(33)、良経第取合に参加、月三首歌会。
8月19日
・遠江守護安田義定(61)、幕府軍の追討により甲斐芳光寺で自害。その宅地は北条義時に与えられる。前年11月の息子安田義資の処置不満疑惑。
20日、その伴類(有力な従者)5人が名越辺りで首を刎ねられる。経緯は不明。和田義盛がこれを奉行し、21日、義盛は恩賞を与えられる。
「安田遠州梟首しをはんぬ。子息義資を誅せられ所領を収公するの後、頻りに五噫を歌い、また日来好有るの輩を相談り、反逆を企てんと欲す。縡すでに発覚すと。」(「吾妻鏡」同日条)。
「遠江の守が伴類五人、名越の辺にて首を刎ねらる。」(「吾妻鏡」同20日条)。
8月22日
・頼朝、「歯の御病気」を患う。雑色を上洛させ、良薬を探させる。
つづく
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