建久4(1193)年
5月1日
「常陸の国鹿嶋社は、二十年に一度必ず造替遷宮有り。去る安元二年造畢するの後、去年二十箇年に満つる所なり。而るに多気の太郎義幹已下社領を知行する輩等の懈緩に依って、造営頗る遅引す。将軍家殊に驚歎せられ給う。仍って造営奉行伊佐の為宗・小栗の重成等、御気色甚だ不快す。八田右衛門の尉知家を差され、来七月十日の祭以前に、早く成風の功を終うべきの旨仰せ含めらると。」(「吾妻鏡」同日条)。
5月8日
・頼朝、富士山裾野で大巻狩(~29日)。
頼朝、富士野藍沢の夏狩を覧る為に駿河に向かう。北条義時(31)・足利義兼・山名義範・里見義成・佐貫廣綱・阿曽沼二郎朝綱等、供する。
前年に死去した後白河の一周忌までの間は諸国での狩猟は禁止されていて、禁制が解かれたこの年の3月以降、頼朝は入間野や下野の那須野などでも狩猟を行っている。一連の狩猟は軍司訓練であり、武家の棟梁としての立場を東国武士に示すデモンストレーションでもあった。
15日、斎日により、狩りは行われず。終日酒宴。手越・黄瀬川はじめ周辺の遊女が群衆し列をなして祇候。里見義成が「遊君別当」に任じられ、芸能に優れたものを選んで召しに応じるように命じられる。また、以降、遊女の事等訴論に到るまで義成が取り仕切る。
16日、頼家、愛甲季隆の助けもあって初めて鹿を射止める。頼朝はたいへん喜んで、この日の狩りを止め、山神・矢口などの神々を祭って祝した。跡取りの頼家が山神によって認められたことを御家人に披露する意味があったと考えられる。ただ、22日に頼朝が鎌倉に派遣した梶原景高からこの報せを受けた母の政子は、「武将の嫡子として当然のこと」と使者を追い返した。景高は富士野に帰参しこのことをほうこくした。この母子の将来を暗示する出来事である。
「若公鹿を獲しめ給う事、将軍家御自愛の余り、梶原の平次左衛門の尉景高を鎌倉に差し進せられ、御台所の御方に賀し申さしめ給う。景高馳参し、女房を以て申し入るの処、敢えて御感に及ばず。御使い還て面目を失う。武将の嫡嗣として、原野の鹿鳥を獲ること、強ち希有と為すに足らず。楚忽の専使頗るその煩い有るか。てえれば、景高富士野に帰参し、今日この趣を申すと。」(「吾妻鏡」同22日条)。
5月8日
・後鳥羽天皇宣旨。
「東大寺は、・・・。治承年中灰燼より以降、また十有四年の春秋を経る。仏像再瑩満月の尊、堂舎未だ成風の役を終え得ず。茲に因って勧進春乗上人の沙汰と為す。周防の国所採の材木、未運送の大小物これ多し。然る間夫功の役米、偏に海内に於いてす。工匠の材木、徒に山中に於いてす。仍って征夷大将軍源朝臣に仰せ、山陰・山陽両道を限らず、遙かに南海・西海の諸国に及び、公領と云い庄領と云い、国損無く国民損無く、宜しく知識の志を相励まし、今に平均の役を催し勤めてえり。」
5月10日
・平時家、鎌倉で没。時忠2男、時忠後妻頌子の讒言で解官、上総へ追放。平広常に迎えられ、後、幕府に士官。
5月28日
・曽我兄弟の仇討ち。
頼朝の富士野の狩りの際、曽我十郎祐成・五郎時致兄弟が、富士野の神野の御旅館に押しかけて、父の敵工藤祐経を殺す。兄弟が父の敵を討ったと大声を出したため、宿侍たちが走り出た。激しい雷雨と闇夜のため、祐成らによって多くの者が疵を負い、宇田五郎らが殺された。祐成は仁田忠常に立ち向かい討たれ、時致は、小舎人童(ことねりわらわ)の五郎丸に捕らわれる。
29日、朝、曽我時致を尋問。山名義範・足利義兼・里見義成等、臨席。(「吾妻鏡」)
〈父河津祐泰を祐経に殺された兄弟の復讐劇の裏にある政治的陰謀〉
父祐泰を殺され、祖父伊東祐親が頼朝に敵対して没落した曽我兄弟を庇護したのは北条時政。兄の祐成は早くから時政のもとに出入りし、弟時致は建久元年9月に時政を烏帽子親として元服(同年9月7日条)。藍沢・富士野での巻狩に関して頼朝の宿館などの手配をしたのは、時政と狩野宗茂であったことから、この事件の黒幕は時政で狙いは頼朝暗殺であったという見方がある。
頼朝の近い場所で起きたこの事件は、鎌倉の政治情勢に大きな影響を与える。
まず、翌月の6月、常陸大掾の多気義幹が八田知家の讒言によって失脚。
8月には、頼朝の弟範頼が起請文の文言を咎められて伊豆に流され、『吾妻鏡』には記載はないが、『北条九代記』『尊卑文脈』などによりば、範頼は8月中に頼朝命により殺されている。
8月18日には範頼の家人らの不穏な動きが伝えられ、8月20日には、曽我祐成と同腹の兄弟・原小次郎が「参州(範頼)の縁坐」として殺害されている。
富士野の騒動から範頼の失脚に至る一連の政治過程は連動したものとみえる。
さらに、8月24日、御家人の長老格、大庭景義と岡崎義実が出家している。『吾妻鏡』は「殊なる所存無し」と記しているが、のちに大庭景義は、疑いをうけて鎌倉を追放されて3年が経ったと述懐しており(建久6年2月9日条)、両人の出家は一連の政変に関わると考えられる。
さらに、11月28日には、甲斐源氏の安田義資が幕府御所の女房に艶書を送ったことを理由に斬首され、翌建久5年8月には義資の父義定が反逆を企てたとして斬首されている。
「子の刻に、故伊東の次郎祐親法師が孫子曽我の十郎祐成・同五郎時致、富士野の神野の御旅館に推参致し、工藤左衛門の尉祐経を殺戮す。・・・祐成兄弟父の敵を討つの由高声を発す。これに依って諸人騒動す。子細を知らずと雖も、宿侍の輩皆悉く走り出ず。雷雨に鞁を撃ち、暗夜に灯を失い、殆ど東西に迷うの間、祐成等が為に多く以て疵を被る。・・・宇田の五郎以下を殺戮せらるるなり。十郎祐成は新田の四郎忠常に合い討たれをはんぬ。五郎は御前を差して奔参す。将軍御劔を取り、これに向わしめ給わんと欲す。而るに左近将監能直これを抑留し奉る。この間に小舎人童五郎丸、曽我の五郎を搦め獲る。仍って大見の小平次に召し預けらる。その後静謐す。義盛・景時仰せを奉り、祐経の死骸を見知す。」(「吾妻鏡」同日条)。
「辰の刻に曽我の五郎を御前の庭上に召し出さる。将軍家出御す。御幕二箇間を揚げ、然るべき人々十余輩その砌に候ず。・・・然るべき人々十余輩その砌に候ず夜討ちの宿意を召し尋ねらる。五郎忿怒して云く、祖父祐親法師誅せらるるの後、子孫沈淪するの間、昵近を聴されずと雖も、最後の所存を申すの條、必ず汝等を以て伝者に用うべからず。尤も直に言上せんと欲す。早く退くべしと。将軍家思し食す所有るに依って條々直にこれを聞こし食す。五郎申して云く、祐経を討つ事、父の尸骸の恥を雪がんが為に、身の鬱憤の志を遂げ露しをはんぬ。祐成九歳・時致七歳の年より以降、頻りに会稽の存念を構え、片時も忘るること無し。而るに遂にこれを果たす。彼と云い此と云い、その恨み無きに非ざるの間、拝謁を遂げ自殺せんが為なり。てえれば、聞く者鳴舌せざると云うこと莫し。・・・五郎は殊なる勇士たるの間、宥めらるるべきかの旨、内々御猶予有りと雖も、祐経の息童(字犬房丸)泣き愁い申すに依って、五郎(年二十)を亘さる。鎮西の中太と号するの男を以て、則ち梟首せしむと。この兄弟は河津の三郎祐泰(祐親法師の嫡子)の男なり。祐泰は去る安元二年十月の比、伊豆奥の狩場に於いて、図らずも矢に中たり命を墜す。これ祐経が所為なり。時に祐成五歳・時致三歳なり。成人の後、祐経が所為の由これを聞き、宿意を遂ぐ。凡そこの間狩倉毎に、御共の輩に相交わり、祐経の隙を伺うこと、影の形に随う如しと。また手越の少将等を召し出され、去る夜の子細を尋ね問わる。祐成兄弟の所為なり。見聞する所悉くこれを申すと。」(「吾妻鏡」同29日条)。
つづく
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