建久6(1195)年
4月1日
・結城朝光・三浦義村・梶原景時ら、京都勘解由小路京極大路で平氏の余党前中務丞薩摩宗資父子を逮捕(「吾妻鏡」同日条)。
4月3日
「将軍家並びに御台所・姫君等、密々石清水以下の霊地を巡礼し給うと。」(「吾妻鏡」同日条)。
4月5日
・畠山重忠、明恵上人に会うために梅尾(栂尾とがのお)に出向く。
重忠は、浄土宗の法門について物語り、俗世間をのがれ、仏道に入る要領を承って帰って行った(『吾妻鏡』)。『吾妻鏡』の写本のうちには、浄土宗をはじめ浄公宗とかき、墨で消して華厳(けごん)宗と書いたものもある(明恵上人は華厳宗を再興した人)。『大日本史』の重忠伝なども華厳宗としている。これは、重忠が会ったのが明恵とすると華厳とせざるを改めざるを得ないからである。
しかし、明恵上人は建久6年秋頃まで、高尾の神護寺にいたことになっており、栂尾復興のことを文覚上人から委託されたのは、建久9年8月、上人26歳の時とである。
『吾妻鏡』の記事については、辻善之助『日本仏教史』では、「然るにこゝに明恵上人とあるは誤であって、必ず法然上人のことに相違ない。」と断じている。
4月10日
・「将軍家御参内。」兼実と対面。頼朝は夜更けに退出(「吾妻鏡」同日条)。
4月12日
・六波羅邸で吉田経房と頼朝の対面。大江広元、陪膳を勤める。
4月15日
・頼朝、石清水八幡宮に参詣。若君(のちの頼家)同車(「吾妻鏡」同日条)。
4月17日
・丹後局、再び六波羅邸をおとずれ政子と大姫に対面。大姫入内の話が進行している。
「丹後二品局六波羅の御亭に参らる。御台所・姫公等御対面に及ぶ。」(「吾妻鏡」同日条)。
4月21日
・参内した頼朝、ついで宣陽門院に参じ、後白河の遺勅どおり、長講堂領7ヵ所を立荘することを約し、24日には、同荘園の乃貢(年貢)を納めるよう取り計らう。大姫入内に向けての朝廷工作の一端。
「将軍家御参内。また宣陽門院に参らしめ給う。長講堂領七箇所の事、故院遺勅に任せ、立てらるるべきの由申し沙汰し給うなりと。」(「吾妻鏡」同日条)。
22日「今日また御参内と。」
4月27日
・梶原景時を使者として住吉社の奉幣、神馬を奉納。
5月10日
・熊野別当堪増が甲(よろい)を若宮(のちの頼家)に献上。頼朝が対面。
5月15日
・三浦義澄の郎党と足利五郎の所従等、闘争。これにより和田義盛・佐原義連以下、義澄の宿所に集まり、小山朝政、小山宗政、小山朝光以下、大胡、佐貫の輩、足利が宿所に集まる。源頼朝、梶原景時を両方に遣わし、和平させる。(「吾妻鏡」)
5月20日
・頼朝、天王寺参詣。先陣の随兵に新田義兼、小野寺通綱。頼朝の後に足利義兼、山名義範。後陣の随兵に里見義成、阿曽沼小次郎等(足利義兼の「吾妻鏡」終見記事)。
この時、鳥羽より船出となり、丹後局の申し出にしたがい栄子の船が借用された。
翌21日、晩鐘が鳴る頃、帰洛。
北条義時(33)、四天王寺に参詣する頼朝に供奉す。
「洛中は御乗車、鳥羽より御船を用いらる。丹後二品局の船を借用せしめ給う。一條二品禅室と御同道有るべきの由、兼ねて御約諾有るに依って、禅室御船を用意す。路頭の庄園に於いて雑事を宛てらるるの由その聞こえ有り。これ太だ賢慮に叶わざるの間、これを請けしめ給わざらんが為、御同道の儀を止めらるる所なりと。」(「吾妻鏡」同日条)。
5月22日
・頼朝、参内し兼実と余談。
翌24日、頼朝、六条殿から故後白河の法華堂(法住寺)に行く。
6月3日
・将軍若宮(源頼家)、参内。弓場殿にて後鳥羽天皇より御剣を賜る。頼朝の跡取りとして認められたことを示している。(「吾妻鏡」同日条)。
6月8日
・足利義兼室北条時子、没か。
6月8日
・頼朝、六条殿に行く。
13日、故後白河の法花寺(法住寺)に行く
6月14日
・下河辺行平、平氏家人の桂兵衛尉こと平貞兼を逮捕し、これを召し進める。桂家は、武門平氏の祖である平高望の子の上総介・良繇(よししげ)に出自する家柄のようである。
6月18日
「御台所・姫君等、密々清水寺以下の霊地を巡礼せしめ給うと。」(「吾妻鏡」同日条)。
6月24日
「将軍家御参内。若公(織物狩衣)同じく参り給う。」(「吾妻鏡」同日条)。関東下向の挨拶。
6月25日
・頼朝は帰国に当たり、知盛の遺児の中納言禅師増盛(ぞうせい)と敦盛の遺児の中納言律師忠快の平家の縁者2人を鎌倉まで同道。これは平家一門の慰霊のための祈禱を依頼するものであったらしく、このあと増盛禅師は鎌倉の勝長寿院に止住せしめられ、忠快律師の方もこれを機縁としてしばしば京都と鎌倉の間を行き来し、勝長寿院や鶴岡八幡宮の北斗堂などで修法をおこなっている。
ことに忠快は三代将軍実朝に深く信頼され、その招きによって再三鎌倉に下り各種の法要に導師をつとめたが、実朝が暗殺されたのち叡山の横川に草庵を結び、ここで千日の間に如法経百部を書写する願を立て、これによって平家一門の供養をおこなおうと企てたという。仲彦三郎氏の『西摂大観』によると、彼は書写した経巻を金の箱に収め、これを携えて源平の古戦場を歴訪したのち、長門の壇の浦に赴き、海中に船を浮かべて散華をおこない、経巻を海底に沈めて一門の冥福を祈ったといわれる。
「将軍家関東御下向なり。供奉人御入洛の時に同じ。但し畿内・西海の間宗たるの輩多く以て扈従すと。また中納言律師忠快(門脇中納言教盛卿の子)・中納言禅師増盛(新中納言知盛卿の息)等並びに前の美濃の守則清が子息これを相伴わしめ給うと。これ皆平氏の縁坐なり。」(「吾妻鏡」同日条)。
鎌倉に帰る途中、大軍勢を率いた頼朝は、美濃国青墓(あおはか、青波賀)、尾張国萱津(かやづ)・遠江国橋本・駿河国黄瀬川などの主要な宿駅で守護や在庁官人たちを集めて、国府の官人たちが新任国司を国境まで出迎える「境迎(さかむか)え」に倣った儀礼を行った。これは東海道の国々を幕府の権力基盤として固め、自らの後継者として頼家を周知させる一大示威行動であった。
28日「美濃の国青波賀の駅」着。
29日「尾張の国萱津の宿」着。
7月1日「熱田社御奉幣」。
2日「遠江の国橋下の駅に於いて、当国の在廰並びに守護・沙汰人等予め参集す。義定朝臣の後、国務及び検断等の事、清濁に就いて、聊か尋ね成敗せしめ給う事有りと。」。
6日「黄瀬河の駅」(「吾妻鏡」同日条)。
つづく
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