2023年3月19日日曜日

〈藤原定家の時代304〉建久6(1195)年3月4日~3月30日 東大寺再建供養 頼朝、宣陽門院の御所六条殿を訪問 丹後局と面談 大姫入内問題 兼実への冷淡な態度 頼朝の政治的失策  

 


〈藤原定家の時代303〉建久6(1195)年1月1日~2月20日 定家(34)叙従四位上 父の俊成は「生年八十二と。言語・耳目共に以て分明と。」(「玉葉」) 頼朝・政子夫妻(大姫、頼家らも同行)上洛 より続く

建久6(1195)年

3月

・この年、天台座主慈円、平和回復のための仏法興隆のため無動寺大乗院で勧学講を開催。その費用を捻出すべく、慈円は上洛している頼朝と交渉、越前の吉田郡藤島荘の年貢の内1千石を勧学講に充てることを認めさせる。

建暦2年(1212)の目録によれば、藤島荘の年貢4800石の内、平泉寺の寺用1千石、勧学講など延暦寺の仏事用途2800石、本家青蓮院得分1千石。綿3千両も勧学講と本家に充てられている(藤島荘の年貢米の8割近くが延暦寺に奪われている)。

この時、能登に配流中の平時忠の後妻頌子らの住まう東洞院第が若宮供僧の宿坊に充てられる。7月、頌子らは頼朝に愁訴し、収公差止めとなる。「平家物語」作者とされる下野守藤原行長は頌子の甥。

3月4日

・夕方、頼朝、入京、「六波羅の御亭に入御」。今回も行列を見物する車が多く立ちならび、ターンすることができない位であった。

6日、六条若宮に奉幣(使者大内惟義)、

7日「左馬の頭隆保朝臣六波羅の御亭に参らる。将軍家御対面有り。御贈物等に及ぶと。その外の人々頗る群参すと。」

9日、石清水八幡宮、左女牛(さめうし)若宮の臨時祭に参詣。畠山重忠が先陣6騎の先頭。

10日、東大寺供養のため、石清水八幡宮から南都東南院に入る。先登は畠山重忠、つづいて和田義盛、そのあと随兵が3騎ずつならんですすみ、それぞれの家の子・郎等は鎧・冑に身をかため、道のわきにならんで進む。頼朝の後に大胡太郎重俊・深栖太郎・佐野七郎・小野寺通綱・園田七郎・里見小太郎・新田(足利)義兼・山名義範・山名重国。後陣に、得川義季・阿曽沼小次郎・佐貫四郎成綱・足利五郎。(「吾妻鏡」)

北条義時(33)、東大寺再建供養会に向かう頼朝に供奉す。

3月11日

「将軍家馬千疋を東大寺に施入せしめ給う。義盛・景時・成尋・昌寛等これを奉行す。凡そ御奉加、八木一万石・黄金一千両・上絹一千疋と。」(「吾妻鏡」同日条)。

3月12日

・当日は、後鳥羽天皇・七条院殖子、関白兼実以下の公卿が列席し、頼朝は南大門西脇の岡の上に桟敷を構えて政子と共に見物した。武士として南大門から内には入らなかった。武士たちは回廊の外で、甲冑を連ねて警固し、「雑人を出入りせしめず」と、一般民衆の参加を許さなかった。

文治元年の大仏開眼供養は後白河と重源の企画で行われ、群衆の熱狂的な参集があり、今回も非常に多くの人が集まった。しかし彼らは頼朝の軍隊によって完全に締め出され、その日を避けて参詣した。締め出しは兼実が頼朝に命じたものだが(『玉葉』3月10日条)、儀式の厳粛さが、民衆の無作法と喧噪によって台無しになるのを嫌ったためか。

当日朝から、大雨となったが、警固の武士らは「われは雨にぬ(濡)るるとだに思はぬけしき(景色、そぶり)にて、ひしとして(すきまなく)居かた(固)ま」っていた(「愚管抄」巻6)。慈円は、しのつく雨にいっさかも動ぜず、一団となって寺の内外、辻々の警固を続ける彼らの姿を、もののわかる人にとっては、まことに驚くべき光景だったと回想している。

『吾妻鏡』の叙述

朝、雨が降った。午(うま)の刻以降、雨が頻りに降った。また地震もあった。

寅の一点に和田義盛と梶原景時が数万騎の武士を引き連れて寺の四面を警固した。日の出後、頼朝が参堂し車に乗る。随兵は数万騎、皆あらかじめ辻々や寺の内外を警備していた。特に際立った弓の使い手2名が惣門の脇に座る。御供の随兵は28騎、先陣は和田義盛・畠山重忠ら、後陣は下河辺行平・佐貫広綱ら。

頼朝が堂の前庇に座ったとき、見聞しようとする衆徒と護衛の随兵との間でいざこざが起ったが、小山朝光がこれをおさめた。

次に後鳥羽の行幸があり、未(ひつじ)の刻に供養がはじまる。集まった高僧は一千人という。

3月12日

・『保暦間記(ほうりやくかんき)』によると、この日、頼朝が南大門より東大寺の境内に入ると、大衆の中に混って怪しい人物が見られた。これを召捕って尋ねてみると、それは平家の侍の薩摩中務と言う者で、折あらは頼朝を暗殺しようと思い、ここに来たとのことであった。頼朝は彼の志に感じ、放免してやろうと言ったけれども、彼は斬られることを望んだので、処刑したという。

この一件は、『平家物語』諸本にも記されている。そこでは、頼朝は都に連行し、六條河原で彼を斬ったと述べられている。名は、『平家物語』には、『薩摩平六家長』(延慶本)、『薩摩中務丞家祐』(四部合戦状本)、『薩摩中務丞宗助』(長門本)、『薩摩中務家資』(覚一本)などと記されている。かれこれ検討してみると、この侍の名は薩摩平六こと前中務丞・平家資が正しいようである。

この日、足利義兼、東大寺にて出家。

3月12日

・中山忠親(65)没

3月13日

・供養の翌日、頼朝は大仏殿に行き陳和卿に会おうとしたが、和卿は頼朝が「国敵退治の時、多くの人命を断ち、罪業深重」であるが故に対面を拒み(『吾妻鏡』3月13日条)、今回の供養会のやり方を快く思わなかったであろう重源も、同じ日逐電し高野山に籠った(『吾妻鏡』5月24,29日条)

頼朝は和卿に甲冑と鞍を置いた馬三頭や金銀を贈った、和卿は、贈られた甲冑を造営に必要な釘の材料として伽藍の施入し、馬以下は受け取ることはできないとして全て返した。

13日「将軍家大仏殿に御参り。」

14日「将軍家帰路せしめ給うと。」

16日「晩に及んで宣陽門院に参り給うと。」(『吾妻鏡』)。

3月15日

・兼実の娘中宮任子(にんし、のちの宜秋門院)の着帯の儀。

3月15日

・北条義時(33)、石清水八幡宮に参詣する頼朝に供奉す。

3月16日

・頼朝、京においてまず最初に宣陽門院の御所六条殿への訪問であった。宣揚門院は、3年前に亡くなった後白河の娘で、生母は丹後局(高階栄子)であり、頼朝は丹後局と面談するのが目的であったと思われる。丹後局や宣陽門院別当の源通親は、関白九条兼実に対抗する旧院近臣勢力の中心人物であり、頼朝は彼らに大姫入内の仲介を依頼していた。

20 ・頼朝、貢馬20頭を禁裏に進上(『吾妻鏡』)。

27 ・頼朝、参内。

3月29日

・頼朝、後白河の寵妃丹後局(宣陽門院の母)を六波羅邸に招き、政子・頼家・大姫に引き合せ、銀作りの蒔絵の箱に砂金300両・白綾30反を入れた贈物。従う諸大夫や侍たちにも引き出物を贈る(「吾妻鏡」同日条)。

また、4月21日、頼朝は、再度、宣陽門院の御所をたずね、荘園7ヶ所を宣陽門院が領有する長講堂領として再興することに賛成との意見を公表(「吾妻鏡」4月21日条)。

丹後局(高階栄子):

後白河法皇の近臣平業房の妻、1180年、夫が平氏に殺された後、鳥羽殿に幽閉された後白河の寵を得て宣陽門院を生む。丹後局は何回か招かれ、頼朝の妻子(政子・大姫)にも引き合わされる。局は、銀蒔絵の箱に砂金300両を納め、白綾30端(たん)を敷いた豪華な贈り物を贈られる。

宣陽門院:

後白河没後、荘園100余ヶ所を長講堂領として相続。宣陽門院庁の別当は源通親で、頼朝が宣陽門院御所を訪問するのも、通親に会うため。宣陽門院をめぐる丹後局・源通親一派は、故法皇の近臣グループで、九条兼実に対する強い敵対勢力。

長講堂領7ヶ荘:

後白河が危篤中、丹後局らは、法皇の知行国の国衙領を荘園にする。法皇没後、九条兼実はこれらの荘園を廃止。頼朝が、これを元通り長講堂領とすることに賛成するのは、兼実の処置に反対の態度を示すことになる。兼実には大打撃。

大姫入内問題(大姫(18)の後鳥羽天皇(19)への入内):頼朝は天皇の外戚の座を狙う。

頼朝は、丹後局を六波羅の館に招き、莫大な贈物をするなどして、この強い反幕感情の持ち主の懐柔に努め、大姫入内を積極的に働きかけた。

このような頼朝の動きは、結果的に兼実追放を目論む通親を後押しすることになった。頼朝と兼実の乖離を見て取った通親は、翌年には兼実追放を断行。2年後の建久9年(1198)1月には後鳥羽天皇が譲位、在子の産んだ為仁親王(土御門天皇)が即位する。こうして、通親の野盟は成就した。

頼朝の動きは、兼実を窮地に陥れただけでなく、京都に培ってきた親幕派勢力の後退を招いたという点でも、頼朝が最晩年におかした最大の政治的失策であった。仕掛けた通親・丹後局の甘言に乗せられたということだろう。

慈円の著した『愚管抄』には、亡くなる直前の頼朝が兼実にこう語ったと伝えている。

「今年、心シヅカニ(京都に)ノポリテ世ノ事サタ(沙汰)セント思ヒタリケリ。璃ノ事存ノ外こ候(全てのことがうまくいかなかった)」ナドゾ九条殿へハ申ツカハシケル。

これによれば頼朝は、これまでの失策を反省し、兼実と連繋して支配体制の再構築を図るため、京へ上り兼実に会おうとしていたことが知られる。しかし頼朝が、兼実こそ無二のパートナーであることを認識するのが遅すぎた。

3月30日

・頼朝、兼実と会談。具体的に何を話したかは不明。「雑事」とのみ。

「参内。頼朝卿に謁し雑事を談る。」(「玉葉」同日条)。

ただ、頼朝の対応は冷淡だったようで、頼朝から贈られた馬は予想より少なかったようである。

「頼朝卿馬二疋を送る。甚だ乏し少なし。これをして如何に。」(「玉葉」4月1日条)

前回上洛時の頼朝は、兼実に対して、後白河没後は兼実の後ろ盾となり一緒に改革を進めるようなことを示唆していた。しかし、今回の上洛では何故か兼実に対して冷淡。

理由は、大姫入内計画にある。頼朝は娘の大姫を後鳥羽天皇に入内させようと図っていた。頼朝の娘が入内するとの噂は、『玉葉』には、後白河没の前年、建久2年4月5日条に初めて見える。しかし、兼実はすでにその前年、娘任子を入内させていた。ここに両者の利害対立のポイントがあり、関係が急速に冷え込みはじめた。

こうした中で、逆に頼朝との距離を縮めていったのが、兼実と対立関係にあった丹後局や源通親である。通親の妻範子は後鳥羽の乳母であり、通親や丹後局は後宮に絶大な影響力を持っていた。そこで、かれらは入内問題を餌にして頼朝に近づき、しだいに連携するようになっていた。

頼朝は二度目の上洛では、3月16日、まず一番に宣陽門院に面会し、同29日、六波羅に丹後局を招き、砂金三百両を納めた銀箔などを与えたことなどは、馬2疋だけであった兼実に対して、頼朝がいかに丹後局たちを重視していたかを物語っている。

しかも、4月24日には、頼朝は丹後局から長講堂領7ヵ所の再建を頼まれ、これを請け合っている。この7ヵ所には、兼実によって停廃された荘園も含まれていたと考えられる。丹後局は、頼朝と結ぶことで巻き返しに動きはじめた。


つづく


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