2023年3月18日土曜日

〈藤原定家の時代303〉建久6(1195)年1月1日~2月20日 定家(34)叙従四位上 父の俊成は「生年八十二と。言語・耳目共に以て分明と。」(「玉葉」) 頼朝・政子夫妻(大姫、頼家らも同行)上洛 

 


〈藤原定家の時代302〉建久5(1194)年閏8月1日~12月26日 政子、清水義高(義仲嫡子)の追善供養を行う 兼実により興福寺中金堂供養 より続く

建久6(1195)年

1月1日

・足利義兼、頼朝に椀飯を献じる。

2日「千葉の介常胤椀飯を進す。」。

3日「小山左衛門の尉朝光椀飯なり。」(「吾妻鏡」)

1月1日

・この日、兼実は自邸の正月拝礼の後、参列した公卿・殿上人に天皇の実母である七条院殖子の拝礼に参るよう促しながら、自分は参列しなかった。父忠通が美福門院の拝礼に参列しなかった例にならったものだとしているが、これは実際には殖子が「諸大夫」身分出身だったためのようである。理由はともかく、天皇から見れば、このことは天皇をないがしろにしているように映っただろう。兼実の態度はやがて、天皇や貴族たちの反発にもつながり、兼実は足をすくわれていくことになる。

1月4日

・頼朝、甘縄の安達盛長の家を訪ねる。三浦義澄以下が供奉(「吾妻鏡」)。

1月5日

・藤原定家(34)、叙従四位上。

翌6日、藤原隆房と加階を祝して歌贈答各一首

1月6日

「今日早旦、俊成入道参入す。その息定家叙位勘文に入るの事を悦び申す。余念誦の間謁せず。女房丹後に逢い和歌の事を談り退出すと。生年八十二と。言語・耳目共に以て分明と。」(「玉葉」同日条)。

1月8日

・毛呂(もろ)季光と中条家長が喧嘩を始め侍所別当の和田義盛が仲裁に入ってもなお、両方の縁者が集まって合戦になりそうになったため、恒例仏事の心経会(しんぎょうえ)が延期になってしまった。発端は、家長が幕府の有力者八田知家の養子になったことを誇り、無礼な振る舞いが目立つようになったためで、これを将軍家の門葉(一族)に位置付けられていた毛呂季光が咎めたことにあったらしい。

1月13日

・頼朝、鶴岡八幡宮に参詣。足利義兼以下供奉。(「吾妻鏡」)

1月20日

・藤原定家(34)、民部卿家歌合(判者俊成)に参加

1月25日

「将軍家三浦三崎の津に渡御す。船中遊興等有りと。義澄の一族等駄餉を儲くと。」(「吾妻鏡」同日条)。~27日。

2月

・左大将後京極良経邸で当世女房8人による百首歌の披講。その夜、この披講に参加したと思われる良経、慈円、俊成、寂蓮、定家、成宗らにより、「春、夏、秋、冬、恋」を題する五百首歌が詠まれる。

2月2日

「御上洛有るべきに依って、供奉人以下路次の條々御沙汰に及ぶと。」(「吾妻鏡」同2日条)。

「雑色足立新三郎清経御使いとして上洛す。これ近日御上洛有るべきに依って、海道駅家等の雑事・渡船・橋の用意等、先にこれを相触れせしめんが為なり。」(「吾妻鏡」同8日条)。

2月9日

・鎌倉を追放されている大庭景能入道が、追放から3年、余命もなく是非今回の頼朝上洛に加わりたいと申文(もうしぶみ)が届く。結果、許されて供奉するようにと言われた。

2月10日

・頼朝の再上京についての行列のことが言いわたされる。畠山重忠が先陣、和田義盛は先陣の随兵のことを、梶原景時は後陣の随兵のことを奉行する。そのほか、行列の次第などのことは、万事前回上京した時の例によるという。

2月12日

「今暁比企の籐四郎右衛門の尉能員・千葉の平次兵衛の尉常秀使節として俄に以て上洛す。これ前の備前の守行家・大夫判官義顕(義経)の残党等、今に海道辺に在存し、今度御上洛の次いでを伺い、会稽の本意を遂げんと欲するの由、巷説出来するの間、路次の障碍たるべきに依って、先ず駅々に於いて子細を尋ね聞き、事もし実ならば、秘計を廻し搦め取るべきの旨將命を含むと。両人共供奉の人数たるべきと雖も、勇敢を守り忽ちこの儀に及ぶと。」(「吾妻鏡」同12日条)。

2月10日

・鶴岡八幡宮の臨時祭。流鏑馬、競馬(くらべうま)、相撲など特にすばらしかった。

2月14日

・頼朝・政子夫妻(大姫、頼家らも同行)、東大寺供養に臨席するため数万の兵を率いて鎌倉を発つ。2度目の上洛。足利義兼・北条義時(33)等、上洛に随兵。義兼、東大寺に於いて出家したと言われ、鑁阿上人義称と称す。 

東大寺の大檀越(だいだんえつ、大檀那)として列席し、「朝の大将軍」としてこの供養の場である東大寺を警備するというのは表向きの理由で、その裏側には後鳥羽天皇に嫡子頼家(14)を源家の跡継ぎとして紹介することと、大姫を天皇の後宮に入れるという目的があった。

「畠山の次郎重忠は先陣たるべし。和田左衛門の尉義盛は先陣随兵の事を奉行せしむべし。梶原平三景時は後陣の事を奉行せしむべし。」(「吾妻鏡」同10日条)。

2月20日

・藤原定家(34)、良経勅使として伊勢に下るに従う。鈴鹿関を越ゆる時詠一首、外宮にて詠一首


つづく

0 件のコメント: