〈藤原定家の時代291〉建久3(1192)年3月1日~3月30日 後白河法皇(66)没 院政35年 後鳥羽天皇(13)親政時代に入る 本格的な関白兼実の執政 裏では源通親と丹後局(高階栄子)が暗躍 より続く
建久3(1192)年
4月2日
「申の刻に御台所御着帯。」(「吾妻鏡」同日条)。
4月2日
・定家(31)参内、御禊、解陣などに勤仕。
4月11日
・頼朝、大進局との間の庶子(のち貞暁)の乳母を大江景国に命じる。初めに命じられた小野成綱らは政子の嫉妬が恐ろしくてこれを辞退した。
4月13日
・藤原定家(31)、体調不良、脚気か?。14日も。
4月17日
・藤原定家(31)、良経より歌一巻を賜わりこれに和す。
4月19日
・暁六条坊門万里小路文義宅火事
4月28日
・藤原定家(31)、前斎院式子内親王に水晶念珠十二を奉る
翌29日、宣陽門院覲子内親王初御幸に供奉
4月29日
・大流星が飛んだという。吉凶の判断は難しいという(『吾妻鏡』)。
5月2日
・定家(31)六条殿での後白河七七日法会に参仕。御誦経使を勤める。
殷富門院高階泰経邸御幸供奉。
式子内親王の藤原経房邸への還御に出車を献ず
5月2日
「広元、将軍に思い飽かるるか。これ廷尉(検非違使)の事によりてなり。然るべし然るべし」(『玉葉』5月2目条)
「検非違使任官問題で、広元が頼朝に不快に思われた。当然のことだ」という。
頼朝の意図を知ってから広元が全ての官職を辞すまでの期間はかなり長い。源通親の計らいで後白河より与えられた官職に、広元は未練を持っていたと思われる。任官問題をめぐり広元と頼朝の関係が極めて不安定な状態にあったことを、兼実は見ていた。元の真意はともあれ、頼朝と広元の関係を阻害する要因は解消された。広元の生涯の中で、建久初年の任官問題は極めて危うい事態をもたらすものであった。
5月3日
・大江広元、離京。
5月8日
・鎌倉・武蔵・相模・伊豆の主要な寺社の供僧が鎌倉の勝長寿院に集められ、後白河の四十九日の仏事が行われる。
後白河没後、鎌倉では7日ごとに仏事が修され、頼朝も同様に潔斎(けっさい、沐浴など心身を清める)、念誦(ねんじゅ、経文や仏名を唱える)を行ったという。
5月19日
・頼朝の庶子(のちの貞暁)が上洛。頼朝は前夜密かに出かけて「御剣」を与える。
「若公上洛せしめ給う。これ仁和寺の隆暁法眼の弟子として入室せんが為なり。」(「吾妻鏡」同日条)。
6月3日
・恩賞の沙汰。右筆の中原仲業、藤田能国に新恩を与える。
6月13日
・この日、頼朝は再び永福寺造営工事を見にきた。この時は御家人たちが工事に従ったらしく、畠山重忠・佐貫広網・城長茂・工藤行光・下河辺政義たちは梁や棟にする大きな材木を運び、その力は力士数十人に相当する大力で、みんな目を丸くして驚いたという。
また、土を夏毛の行騰(むかばき)に入れて運んでいる者があり、名前を尋ねたところ、囚人の皆河太郎とのことで、頼朝は感心して彼を放免するよう計らった。"
6月20日
・幕府、美濃の御家人に守護大内惟義の指示に従って京都の群盗を捕らえるよう命じる(「吾妻鏡」同日条)。
つづく
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