建久3(1192)年
3月1日
・藤原定家(31)、参内。源通宗と御輿雨皮の作法について語る。
5日、賀茂祭の使の催しあるも、断る。
3月2日
・大江広元より、検非違使についての辞表を提出した旨の書状が鎌倉に届く。
3月6日
・藤原定家(31)のこの日の行動。帰宅は翌日の早朝だった。
「六日、天晴、巳時(午前10時頃)院に参る。人々多く参る。未刻(午後2時頃)退出し、七条(院)・八条院へ参り、家に帰る。昏(夕方)に内(内裏)に参る。人なきにより、独り宮御方(任子・宜秋門院)に参り、格子を下ぐるの後、大将殿(九条良経)に参り見参の後、宮御方(任子)に帰り参る。深更、又大将殿(良経)に参り、暁鐘の程蓬(自宅)に帰る。」
この時期定家は、五条京極邸を出て九条邸の北にあった宿所(九条宅)に住んでおり、そこが行動の拠点となっていた。また、宮御方(任子)と大将殿(良経)は九条兼実の子で、この時期任子は中宮として内裏(閑院)に住み、良経は一条殿を居所としていた。兼実は広大な九条邸を所有していたが、この時期は後白河院に勧められ、大炊殿を本所として関白の職務に当っていた。
この日の定家の移動はおよそ22km。南北約5.3kmだった平安京を、南北に二往復以上を移動したことになる。
3月7日
・藤原定家(31)、心身悩む
3月9日
・藤原定家(31)、写経一巻
3月10日
・藤原定家(31)、後白河の病状についての聞き書きを記す。
「法皇、夜前より六借(むつか)しくおはしますと云々」(マラリアの発作発熱か)
3月13日
・後白河法皇(66)、没(誕生:大治2(1127)/09/11)。院政35年。後鳥羽天皇(13)の親政時代に入る。
・藤原定家(31)、参内して警固を勤める
「十三日。天晴る。未明、雑人云ふ、院已に崩御と。或説に云ふ、亥の刻許(ばか)りに御気絶し了んぬ。而れども秘せらるるに間、人知らずと云々。此の間、閭巷(りよかう)猶静かなり。実否を聞かんがため、御所の辺りを伺はしむるの間、車馬競ひ馳り天明の程なり。即ち束帯を着し、先ず関白殿(兼実)に参ず。押小路洞院の大路に於て、御車に逢ひ奉る。即ち車を下り、御共に参ず。」
藤原定家、藤原信西の後白河評を記す。
「和漢の間に比類無き暗主なり、謀反の臣傍らに在るも、一切覚悟の御心無し、人がこれを悟らせ奉ると雖も、猶以て覚えず、かくの如き愚昧は古今未だ見ず、未だ聞かざるものなり」。
ただ徳は二つあり、
①自分のやりたい事は人が制してもやり遂げる。賢主の場合は欠点であるが、愚昧の余り徳となる。
②自分の聞いた事は決して忘れない。
「只恨むらくは延喜天暦の古風をわするること、去年初冬より、御悩初めて萌し、漸々御増し、…」(九条兼実「玉葉」)。
関白九条兼実が廟堂の頂点に立ち本格的な兼実の執政、九条家の全盛が始まる(後白河生前は、法皇・近臣の策動で思うままの執政が振えなかったが、ようやく自分の政治を実現できると期待する)。東寺、興福寺、東大寺を修造。朝廷の公事・行事を再興し、以降の朝廷政治の基礎を作る。7月、鎌倉に幕府を開く源頼朝を征夷大将軍とする。
しかし、裏で村上源氏の代表的政治家源通親と丹後局(高階栄子)が結託。建久7(1196)年、「建久7年の政変」となる。兼実に陰謀ありとして、関白・藤氏長者を停止させ前摂政近衛基通をこれに代え、九条家一門を追い落とす。源通親は、後白河法皇没後、九条兼実提案の頼朝への征夷大将軍任命に賛同して頼朝への「貸し」を作る。また、法皇の娘・覲子(ぎんし)内親王(宣陽門院)の後見に任じられその莫大な財産管理を命じられる。政治的基盤確保は怠らず。
本格的な九条兼実の政治が始まるとともに、定家は日記を丹念につけるようになったものと見られ、この時期から『明月記』はまとまった記事を残している
・後白河の没する直前、後白河の愛妾・丹後局(高階栄子)は、後白河近臣・源通観(村上源氏)、後白河皇子・梶井宮承仁(かじいのみやしようじん)法親王らと示し合わせ、播磨・備前に巨大な荘園を立荘したが、後白河が没すると兼実はこれをすべて停廃した。これは、『愚管抄』(巻第6)にしか見られない話だが、兼実は後白河没の直前である建久3年2月17日、院の北面下臈らが競って「新立庄(しんりつのしよう)」を立てているとし、「甚だ不便。然れども力及ばず」と述べており、これは事実であろうと考えられる。
丹後局は治承3年の政変以後、後白河に寵愛された女房で、後白河との間に皇女覲子内親王(宣陽門院)を生んだが、もとは澄雲という延暦寺の僧侶の娘で、後白河の近臣平業房(桓武平氏傍流)の妻であった。彼女について、兼実は「卑賎の者」という扱いで(文治3年2月19日条)、後白河生前から良い印象を持っていなかった。そこで、後白河が没すると、兼実は彼女たちを改革に対する抵抗勢力として排斥し、その利権にメスを入れようとした。
没の日より、卿局(きょうのつぼね)が影響力を示し始める。この夜、源通親は右大臣藤原兼雅の使者として参内、蓮華王院の宝物散逸を防ぐ方法を卿局を通じて申入れ。
卿局:
藤原兼子・藤原範兼の娘、通親養女の中宮在子の叔母、後鳥羽が範兼の弟範季に養われて育った際に身の回りの世話をする。「京ニハ卿二位ヒシト世ヲ取リタリ」(「愚管抄」)と言われるような政治の主導権を握る。
殷富門院以下の皇女たちへの御処分を、定家は詳しく書きとめている。前斎宮・前斎院の女房から漏れ聞いたのであろう。
遺領の処分:
殷富門院に押小路御所(没後は天皇に)、宣陽門院に六条殿御所・長講堂とその所領、式子には、大炊殿、白川常光院、そのほかの御庄両三、好子前斎宮には、仁和寺の花園殿。後鳥羽天皇に法住寺殿・蓮華王院・六勝寺・鳥羽など多くが与えられる。後白河の場合、鳥羽院が遺領の多くを美福門院との間の八条院に譲り厳しい船出であったが。
没の直前、若狭では遠敷郡吉田荘・三宅荘、大飯郡和田荘、越前では坂井郡坂北荘をはじめとする長講堂領、志比荘を含む最勝光院領、さらに新熊野社領、高階栄子領、春日社領などの荘園について、起請・院庁下文などによって大小国役の停止などを定める。
覲子内親王(宣陽門院):
1181(養和1)年、後白河法皇(55)・丹後局の間に誕生。1191(建久2)年、11歳で女院号をうけ宣陽門院と称す。翌年3月、法皇没後、法皇の処分状により長講堂領を譲り受ける。天皇家の荘園は平安時代末期(院政期)に急激に増加し、鎌倉時代には全国に600~700ヶ所といわれる。長講堂領はその荘園群の中で最大級の1つ。長講堂は、後白河法皇六条御所(京都六条西洞院)の持仏堂の法華長講弥陀三昧堂のことで(五条寺町南)、法皇がこの長講堂に荘園を寄進しておいたのが長講堂領。宣陽門院は25歳で剃髪、1252(建長4)年6月、72歳没まで荘園を守って独身で通す。長講堂領は宣陽門院没後、その猶子(名義上の養子)となった後深草天皇に伝えられる。
3月16日
・後白河没の報、鎌倉に届く。
3月17日
・定家(31)、後白河の仏事に参仕
19日、後白河初七日の参仕。以後、七日毎の仏事に参仕。また、丹後局・皇子女・近臣らが催す仏事や連日の懺法にも度々参仕事。
24日、俊成、一品経供養の人数に入る
3月19日
・鎌倉、幕府御所で後白河の初七日の仏事。頼朝は七日ごとに「御潔斎」「御念誦(ねんじゅ)」を行うという。
3月30日
・藤原俊成、後白河哀傷の長歌を詠む。静賢・通親も唱和。
つづく
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