建久4(1193)年
8月12日
「姫君御不例の気有りと。」(「吾妻鏡」同日条)。
「姫君の御不例御減す。」(「吾妻鏡」同23日条)。
8月15日
「鶴岡八幡宮の放生会なり。」(「吾妻鏡」同日条)
「同宮馬場の流鏑馬なり。」(「吾妻鏡」同16日条)。
8月17日
・頼朝、弟範頼を伊豆修禅寺へ放逐、ついで梶原景時に命じて殺害(範頼、弓で奮戦するが、居所に火を放ち、自害)。
18日、範頼の家人橘公忠等、浜の館にて討たれる(「吾妻鏡」)。
「参河の守範頼朝臣伊豆の国に下向せらる。狩野の介宗茂・宇佐美の三郎祐茂等預かり守護する所なり。帰参その期有るべからず。偏に配流の如し。當麻の太郎は薩摩の国に遣わさる。忽ち誅せらるべきの処、折節姫君の御不例に依って、その刑を緩せらると。これ陰謀の構え上聞に達しをはんぬ。起請文を進せらるると雖も、當麻が所行これを宥められ難きに依って、この儀に及ぶと。」(「吾妻鏡」同17日条)。
「申の刻、参州家人橘太左衛門の尉・江瀧口・梓刑部の丞等、鏃を研ぎ濱の宿舘に籠もるの由その聞こえ有るに依って、結城の七郎・梶原平三父子・新田の四郎等を差し遣わし、即時にこれを敗績すと。」(「吾妻鏡」同17日条)
「三河の守範頼誅せられをはんぬ。その故は、去る富士の狩りの時、狩り場にて大将殿の打れさせ給と云う事鎌倉へ聞えたりけるに、二位殿大いに騒いで歎かせ給いけるに、範頼鎌倉に留守なりけるが、範頼左て候へば御代は何事か候べきと慰め申したりけるを、扨は世に心を懸けたるかとて、誅せられけるとかや。」(「保暦間記」)
「三川の守範頼誅せらる。寺田の太郎・志賀摩の五郎等、右幕下を伐たんと欲するに依ってなり。」(「北條九代記」)。
8月20日
・曽我十郎祐成の同腹の兄弟である原小次郎、処刑。範頼の縁坐という。
8月24日
・大庭景義・岡崎義実、出家。とりたてて思う所があったわけではないが、それぞれ年老いたので許されて出家した。
9月
・藤原定家(32)、母の喪中、慈円へ十首歌を送る
・この秋、良経主催で良経の自邸徳大寺殿歌の間にて、『六百番歌合』が行われる。
四季五十首に、恋五十首という比率で、その恋も、実に微細に部類、寄獣、寄傀儡恋、寄樵夫、寄商人恋など、奇想を多く取り入れる。左は、良経・季経・兼守・有家・定家・顕昭。右は、家房・経家・隆信・家隆・慈円・寂蓮であり、判は俊成。顕昭が『顕昭陳状』で、俊成の判に反論。
六条流やや衰え、九条家を中心として、良経、定家、寂蓮、慈円の歌が研がれたのも、この頃が端緒。
9月7日
「故法皇の御旧跡宣陽門院、當時無人なり。群盗以下の狼藉、尤も怖畏有るべきの由、前の黄門内々歎き申さるるに依って、日来その沙汰有り。畿内近国の御家人等を相催し、宿直に差し進すべきの旨、経高・盛綱・基清等に仰せ含めらると。」(「吾妻鏡」同日条)。
9月11日
・義時の嫡男(のちの泰時)が江間から鎌倉に参った。7日に伊豆で子鹿を射止め、それを携えて今日御所に参入した。義時が矢祭(箭祭)の準備したので、頼朝も西侍に出てきた。足利義兼、山名義範等が列座した(「吾妻鏡」)。
9月18日
・頼朝、岩殿と大蔵の観音堂に参詣、大姫の病気治癒を願う(「吾妻鏡」同日条)。
10月1日
・頼家、義時(31)の新造花邸に渡御。
10月7日
・多(おお)好節が召しによって鎌倉に到着。来月鶴岡で神楽を行うため。同じく大江久家も帰着した。久家は秘曲を相伝するために上洛していて、宮人の曲を一事残らず伝授したとのこと。多好方は文書で、「譜代でない人にはこの曲を伝えないが、厳命によってすべて伝授した」と言って寄こした(『吾妻鏡』)。
10月28日
・佐々木定綱、鎌倉に到着。薩摩国に配流されていたが、後白河一周忌により3月12日に恩赦に逢った。頼朝からは、近江国守護職(しき)のことについては元の通り執行するように申し渡された。(「吾妻鏡」同日条)、長門・石見守護も兼任(「吾妻鏡」同12月20日条)。
10月29日
・御倉に納められた米百石・大豆百石を遠国から参上している御家人らに施す。二階堂行政が奉行する。
11月6日
・足利義兼、樺崎寺本堂の法界寺に本尊大日如来像を安置し、瑠璃王、薬寿御前兄弟を孝養。(「吾妻鏡」)
11月12日
・大江広元、楽人多好方(おおのよしかた)に対する神楽(かぐら)賞としての飛騨国荒木郷地頭職付与を奉行。
11月28日
・安田義資(「遠江の守義定が一男」)、梶原景時の讒言(前日の永福寺薬師堂供養の際、大倉御所官女に艶書を送る)により名越邸にて自刃、梟首(「吾妻鏡」同日条)。
12月5日、父安田義定、縁坐の罪に問われ浅羽荘地頭職を没収される。
翌建久5年8月19日、反乱を企てたとして梟首。
11月30日
・この日付け『吾妻鏡』に「人々恩沢に浴す。因幡前司広元・民部大夫行政・大蔵丞頼平(よりひら)等これを奉行す」とある。
建久4年頃を境に、御家人への恩賞付与の実務は、政所に基盤を置く大江広元が中心となって進められることとなった。
これにより、将軍頼朝(さらには頼家・実朝)からの恩賞を期待する御家人たちは、大江広元の存在を重んじざるをえないことになり、幕府内での広元の立場は強固なものとなった。だがそれは一面で、御家人たちの不満が一身に広元に向けられることを意味し、広元の政治的立場を不安定なものとする契機となりかねないものでもある。
12月7日
・六角堂が焼失。
12月15日
・兼実、丹後局と親しく、業房との間に生まれた教成を猶子としていた藤原実教(善勝寺流、成親の弟)の左近衛中将の職を解任(12月6日条)。実教は参議と左近衛中将を兼任していたが、これは「宰相中将」といって、上級貴族の昇進ルートに位置づけられる地位であり、「諸大夫」身分である実教には似つかわしくないと判断された。後白河は身分の高下によらず、側近に破格の出世を許したが、兼実は昇進ルートを身分によって厳格に規制しようとした。
つづく
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