建久2(1191)年
7月17日
・丹波局、兼実の家司が法皇を呪詛しているとの落書に嫌味の手紙を添えて兼実に送る。兼実は周章狼狽、人に頼んで陳疏するが、局の挨拶がよく安堵し、自身も局に会って意中を述べ、「貴妃理に伏すの色あり。鄙生過なぎの験を顕わすか」と謙遜の辞を日記に書く(「玉葉」同日条)。
「巳の刻、院より二品(丹後なり)札を送りて云く、落書これを遣わす。この事御信用無きと雖も、他所より聞き及わば、自ずと奇を成すか。また心を量るに似たり。仍って内々遣わす所の人心、又々奇怪。左右に能わずてえり。落書を披くの処、光長卿・頼輔法師等、一所の家領長者に付けられざる事を怨み、法皇を呪詛し奉る。これ院宣に依って抑留せらるるが故なり。しかのみならず、光長武士を集め、謀反を企てんと欲す。頼輔法師、また使者を以て、仙洞の不可を朝暮関東に通すと。また通親・定長・基親等の卿常に非ざる者なりと。余御使に付け、落書を返し進す。」(「玉葉」同日条)。
この年、丹後局の前夫平業房との間の子の教成が右近衛少将になり、摂政拝賀のため参邸した際、兼実は、特に呼びとめて言葉をかけ、「追従(ついしょう)のためなり」と書く。また、局から覲子内親王の院号宣下について自分よりの奏聞は憚り多い故、兼実に発言するようとの依頼を受け、執奏に及ぶ。
7月28日
・頼朝、新御所に入御(第2期大倉御所)。
源頼朝邸の対屋、寝殿完成し、頼朝安達盛長邸より移徒(「吾妻鏡」同日条)。
北条義時(29)、頼朝の新邸移徒に後陣を勤む。
7月末
・宋より帰国した栄西、臨済宗を広める。
8月1日
・頼朝の新邸で酒宴。足利義兼、千葉常胤、三浦義澄、畠山重忠、八田知家、工藤景光、梶原景時・朝景、比企能員、岡崎義実、佐々木盛綱らが祇候。頼朝の指示によりそれぞれが昔の話を始め、大庭景能は、盃酒を献上し、保元合戦の事を語った。
6日、御行初(おなりはじめ)の儀。
15日、鶴岡放生会。(「吾妻鏡」同日」状)
8月3日
・定家、13日に良経邸で作文・管絃・和歌等ある由を聞く
「八月三日。己卯。天晴。大将殿ニ、来タル十三日、御作文管絃和歌等アルペシ。光範題ヲ献ゼラル(家月歳月長シ、己ハ万年会ヲ契ル。管絃ハ寿城ノ中。已上詩共ニ御意ニ叶ハザルノ由仰セラル)。松ノ鶴(和歌)。」(『明月記』)
8月16日
・藤原定家(30)、後白河法皇栖霞寺におられた時駒迎の牽分の使に参り一首詠歌
8月18日
・頼朝邸に諸人が進上した馬を新厩に立てる。頼朝、これを見る(「吾妻鏡」)。
9月18日
・頼朝、大倉観音堂に参る。
9月21日
・稲村ケ崎で小笠懸
「海浜を歴覧せんが為、稲村崎の辺に出で給う。小笠懸の勝負有り。」(「吾妻鏡」同日条)。
10月15日
・藤原定家(30)、吉田祭陪膳勤仕
10月17日
「卯の刻、大姫君御違例。太だ御辛苦の由、諸人群参すと。」(「吾妻鏡」同日条)。
「大姫君の御不例復本し御う。」(「吾妻鏡」11月8日条)。
10月20日
・長期間の在京を続けている間に、大江広元が直接に後白河より破格の任官を許されたことが、家人への恩賞付与を他者に委ねることに極めて強い嫌悪感を示す頼朝の感情を逆なでし、頼朝の仰せによって広元は明法博士の職を辞した。実際に広元が明法博士職を去るのは11月5日(建久3年2月21日付広元辞状)。
「廣元朝臣明法博士を辞すべきの由これを申し送る。関東に祇候するの輩、顕要の官職を以て恣に兼帯すること然るべからず。辞せしむべきの旨仰せ下さると。」(「吾妻鏡」同日条)。
「広元が、明法博士の職を辞する旨を京都に伝えた。鎌倉幕府に仕える者が、勝手に朝廷の要職を兼ねることは好ましくないから、職を辞するように、との頼朝の仰せがあった」
つづく
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