2023年3月4日土曜日

〈藤原定家の時代289〉建久2(1191)年11月14日~閏12月29日 平康盛、囚われ梟首 後白河、再建された法住寺殿へ移徒、病気のため10日程で戻る 後白河の病状悪化    

 


〈藤原定家の時代288〉建久2(1191)年7月17日~10月20日 頼朝の新邸完成 酒宴 大庭景能、盃酒を献上し、保元合戦の事を語る 稲村ケ崎で小笠懸 大江広元、明法博士を辞す より続く

建久2(1191)年

11月14日

・平康盛(故源有綱の家人)、北条時定の暗殺を企てて梶原景時に囚われる。

有綱(金吾)は義経の婿であり、時定に殺されてた。

12月6日、「前の右兵衛の尉康盛、腰越の辺に於いてこれを梟首」。

「梶原平三景時由比の辺に於いて、男一人を搦め取る。これ反逆の余党の由自称す。・・・故伊豆右衛門の尉の家人前の右兵衛の尉平康盛なり。北條平六左衛門の尉を謀らんが為窺行するの処、微運此の如し。金吾は前の豫州(義顕)の聟なり。彼の叛逆に與同するの間、平六を遣わし誅せられをはんぬ。その宿意を果たさんが為か。鶴岡遷宮以後、罪名の沙汰有るべしと。」(「吾妻鏡」同日条)。 

11月15日

・定家、吉田祭に参仕、陪膳を勤める(『玉葉』)

11月19日

・頼朝、畠山重忠・梶原景季に命じ多(おおの)好方(右近将監好方)に神楽を習わせる。22日、多好方ら、帰洛。

11月21日

・鶴岡八幡宮の遷宮(先の大火のため)に頼朝臨席。

北条義時(29)、鶴岡宮遷宮に頼朝の傍らに劔をもって供奉す。

12月15日

・故土佐坊昌俊の老母が下野より参上。老母は亡くなった息子のことを話して涙を流した。頼朝ははたいそう歎いて綿衣二領を与えた。

12月16日

・大江広元、中原親能、そして10月に新たな責任者に加わった成勝寺(じようしようじ)執行昌寛法橋の指揮により、院御所法住寺殿再建工事は順調に進められ、この日、再建された法住寺殿への後白河の移徒(いし、転居)が行なわれ、その記録が広元の使者によって24日に鎌倉へ伝えられる。移徒の翌朝、後白河は御所造営の功を賞し、広元と親能に剣を与えている。

後白河は、病気のため、10日程で六条殿に戻る。

12月17日

・九条兼実(43)、後鳥羽天皇の成人により摂政を改め関白となる(准摂政)。

12月24日

「親能・廣元等の使者京都より参着す。去る十七日、法住寺殿御移徙の儀有り。毎事無為と。」(「吾妻鏡」同日条)。

12月25日

「定長卿来たり談りて云く、法皇御不食、去る二十日より御増気有り。また御脚腫れ給う。御灸治痛み、御心地六借御うと。」(「玉葉」同日条)。

12月26日

・守貞親王(13、のち後高倉院、乳母は平知盛の妻治部卿局)、元服。

12月27日

・藤原定家(30)、良経に十題百首詠進

「十二月二十七日。辛卯。夜、雪既二積ム(三寸評り)。朝、天晴レシム。今日百首ノ歌ヲ大将殿二進ム(是レヨリ先、一首ヲ進ム。御和アリ)。披講二於テハ出仕ヲ期スべキ由、仰セラル。病気猶扶ケ得ザル間、参入スル能ハズ。」

12月29日

・後白河上皇(1127~92)院中に、執事として花山院兼雅が見える(「玉葉」同日条)。

閏12月1日

・北条時政、脚気の療養のため伊豆国の北条に下向しそこで年を越すという(『吾妻鏡』)。

閏12月4日

・九条良経、十題百首を企画。良経・俊成・定家が百首歌を詠む。

良経は、一条能保女と結婚し、一条殿に住んでいた。この日、定家はまず慈円に牛車を賜った御礼に行く。

「閏十二月四日。戊申。天晴。午ノ時許リニ、無動寺ノ法印ニ参ズ。牛車ヲ悦ビ申スタメナリ。見参良々久シキノ後、件ノ少輔入道、同乗シテ退去、路ノ次デ、押小路殿、幷ニ中宮ニ参ズ。此ノ間、入道車ノ中ニアリ。相次デ一条殿二参ズ。昨日ノ仰セニ依りテナリ。夜ニ人リテ、百歌ヲ読ミアゲラル(御歌・入道・予三百ナリ)。事畢リテ当座ノ狂歌等アリ。深更ニ相共ニ家ニ帰ル。」

建久年間、良経は和歌に邁進し、殆ど定家が関連する。慈円・寂蓮・家隆などとの交流の中で生れた和歌は「天下の貴賎」より「新儀非拠の達磨歌」(新風)と批判されたと定家は後に回想。

非難の主流は兼実の和歌の師匠であった藤原清輔の流れを汲む六条藤家(伝統的和歌学)から。良経は、俊成の新風の御子在家と六条藤家の対立の中で、その間に立ち和歌会を主催し、両者の精髄を吸収。建久4年冬、600番歌合を主催、両家から作者12人が参加。

閏12月7日

・頼朝、招待され新造の三浦義澄邸に入る。相撲の勝負が行われた。

閏12月14日

・後白河が不食の病で倒れ、病状が次第に悪化。関白兼実は、その平癒を祈願するために崇徳院と安徳天皇が没した場所、讃岐の白峰と長門の壇の浦に御堂を建て、両帝とともに保元・源平の争乱で戦死した士卒らの菩提を弔うことを進言。兼実はこれを廟議にかけて同意をとったうえ、大蔵卿泰経をもって奏上、それを容れて法皇は右大臣の花山院兼雅にその実現に向け施策をめぐらすよう命じる。こうして同年閏12月28日に、ようやく長門国に御影堂を建立することが宣下されることになった。

「崇徳院幷びに安徳天皇等、崩御の所に一堂を建て、かの御菩提並びに亡命士卒の滅罪の勝因に資すべき事、申し沙汰すべき由、泰経に仰せ了り、即ち退出し了んぬ。」(『玉葉』建久2年閏12月14日条)

閏12月16日

・藤原実定(入道左大臣禅閤)(53)、没。

閏12月16日

・後白河、病悩

「法皇六借御うと。・・・医師等を召し、御悩の安否を問う。御腹張満し始め、当月妊者の如し。また御脛股の腫滅無きの上、御腰猶腫れ給う。昨日また御面少し腫れ給う。御痢度数減有りと雖も、その躰太だ心得ず。覚えずして漏らすと。これ不快の相なり。御不食猶未だ滅せず。件の四腫の病気を帯びながら、力衰微せず。起居軽利・行法転経日来の如し。死相一切現れ給わらずと。また服薬に随い、御悩倍増す。偏に邪気の為す所と。右大臣を以て仰せ下されて云く、崇徳・安徳、両怨霊陳謝の間の事、且つは例を問い、且つは人に尋ね、計り奏せしむべしてえり。」(「玉葉」同日条)。

「未明、人伝えに、法皇事有り。余この事を信ぜず。果たして以て浮言と。」(「玉葉」同17日条)。

「法皇猶不快に御坐す。今日御膳また通せずをはんぬ。御腫並びに御腹張満、凡そ減無し。殆ど御腫に於いては、増気有りと。」(「玉葉」同21日条)。

閏12月29日

後白河法皇、病に臥す。崇徳院、安徳天皇、藤原頼長を祀って鎮魂



つづく

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