1月20日
・頼朝の計報に接した権大納言源通親は、知らぬ体を装ってこの日朝、急遽小除目を行い、摂政藤原基通の内覧をも省略して、自らの右大将兼任と頼朝の子息頼家の左中将昇進を強行。その後、頼朝没を正式に朝廷に報告、喪に服す。
本来ならば、頼朝のために喪を発し、その期間内は人事異動を延期する慣例であるが、通親は頼朝没の正式発表前に自分の右近衛大将就任を繰上で発動、そして、右近衛大将の推薦という形式で(次期将軍になるであろう)頼朝の嫡男源頼家の左近衛中将任命の手続きを取り「頼朝死去」の喪を公表して直ちに閉門蟄居・謹慎。
また、この年、通親は内大臣に昇進。後白河・頼朝は亡く、兼実も失脚し、朝廷・幕府・院の全てが通親の意向を重んじ、かつての摂関政治を髣髴とさせる状況を生み出す。
頼家の件は、頼朝が亡くなれば服喪のため除目を行なうことはできなくなる。その除目を頼朝の死去を知っていながら行なったとなると、それは幕府を愚弄することになろう。この措置は、京都守護だった故一条能保の部等らによって、ただちに鎌倉へ伝えられている。
1月21日
・定家(38)、風病を病み、数日間体調不良。
1月22日
・この日から、京都は「院中物忩、上の辺り兵革の疑いあり」「京中騒動」の巷説が駆け巡って緊迫した情勢となり、通親は、「今、外に出ては殺されかねない」と院御所に立て籠もる(「只今マカリ出デバ殺サレ候ナンズ」(『愚管抄』))。
「右大将初任の翌日より閉門す。前の将軍有事の由奏聞せず(傍輩また此の如し)。見存の由を称し、除目を行うの後薨逝を聞き、忽ち驚歎するの由、相示さんが為に閉門すと。奇謀の至りなり。また巷説に云く、院中物騒にて、上辺兵革の疑い有り。御祈り千万神馬を引かる。」(「明月記」22日条)
1月26日
・幕府が申請していないにもかかわらず、「故頼朝卿家人、右近中将頼家に随(したが)ひ、諸国守護を奉仕すべきの由宣下す」(『百練抄』建久10年1月25日条)という宣旨が発給され、頼家(18)が鎌倉殿を継ぐ。二代目源家将軍が誕生。頼家が正式に征現大将軍に任命されるのは建仁2年(1202)7月23日だが、家督の継承により幕府の最高権力者の地位は確定しているので、この時の任命は追認にすぎない。
通親ら朝廷首脳部は、頼朝の死による幕府の混乱・解体ではなく、幕府権力の二代頼家への円滑な移行を望んだ。
「吾妻鏡」は、父の偉業に押し潰され、悪評高き輩を近づけ、家人の妻を奪うなどの頼家の行状が多くの人々の怨みを買うとの悪評を書く。
1月26日
「巷説、京中騒動し、衆口狂乱す。院中また物騒にて新大将猶世間を恐ると。」(「明月記」)
1月28日
「世間の狂言日を遂って嗷々す。院中の警固軍陣の如しと。」(「明月記」)
1月30日
・定家、嵯峨に行く。
「天下の穢に依って、諸社祭停止の由仰せらるると。」(「明月記」)
2月2日
・「今日寅の時八幡炎上有り。西谷大塔・小塔・釈迦堂・鐘楼小屋等少々と。」
2月2日
・藤原定家(38)、八条院の鳥羽院月忌仏事に参仕
2月6日
・26日付け宣旨が到着し、この日、政所にて頼家の吉書始め(業務の開始)の儀式。『頼家紀』この吉書始かの記事から始まる。
三善康信が起草し中原仲業(なかなり)が清書した「武蔵国海月(くらき)郡」に関わる吉書が、大江広元より頼家のもとに進上される。
儀式に参列した人びとは、
政所 大江広元(別当)、中原仲業(別当か)、二階堂行政(令)、源光行(?)
問注所 三善善信(執事)
侍 所 和田義盛(別当)、梶原景時(所司)
公事奉行大 平盛時、三善宣衡
その他 北条時政、三浦義澄、八田知家、比企能員
2月8日
・定家(38)、休暇を取って妻を連れて三条坊門(俊成)を訪ねた、その後、嵯峨に向い12日まで滞在。10日、11日、清涼寺に参詣。
2月11日
・この日になって、左馬頭源隆保が自邸に武士を集めて謀議していた事実が明らかとなる。
翌12日、関東から飛脚が到来して幕府が通親を支持する方針が伝えられたらしく、「右大将光を放つ。損亡すべき人々多し」という情報が流れる。
「一昨日京中忽ち騒動す。隆保朝臣北小路東洞院に行き向かい、諸武士を喚集し議定す。この事に依って天下また狂乱す。衆口嗷々すと。これ皆不幸の人殃を招くべきの故か。」(『明月記』11日条) 。
「関東の飛脚帰京す。右大将光を放ち、損亡すべき人々等多しと。」(『明月記』12日条)
2月13日
・定家(38)、亡母の忌日仏事
つづく
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