建久5(1194)年
閏8月1日
・源頼朝、一条高能を伴って三浦に赴く。足利義兼等、供奉。里見義成、小笠懸の射手となる。夕刻、政子、若君(のちの頼家)、大姫らが集まる。(「吾妻鏡」同日条)。
閏8月2日
・政子が鎌倉に帰る(この日は彼岸の初日にあたり、7日間持仏堂に籠もり、仏事を修し、8日の結願にあたり、志水義高追福のため、仏教を供養している。大姫を思う政子の母心を偲ばせる逸話)。
三浦で再度小笠懸。三浦海岸の船上で興宴。遊女らが参上。猿楽小法師中太丸なる者が参上し、芸を見せて「上下願(おとがい)」を解いたという。
翌3日、頼朝、一条高能、鎌倉に戻る。
閏8月7日
・北条義時(32)、安田義定跡の屋敷地を拝領す。
閏8月8日
・北条政子、清水冠者義高の追善供養を行う。新田義兼、参加(「吾妻鏡」同日条)。
閏8月16日
・一条能保の使者が鎌倉着。能保(48)が病気のため2日に出家したとのこと。
閏8月16日
・藤原定家(33)、崇徳院のための栗田宮奉幣使
閏8月22日
・頼朝、伊勢神社別宮の甘縄宮に参り、帰路、安達盛長の家を訪ねる(「吾妻鏡」同日条)。
9月11日
・永福寺内新造の薬師堂宿直人に、結城朝光・畠山重忠・和田義盛らが定められる。
9月22日
・頼朝の「歯の御病気」再発
9月22日
・興福寺の中核である中金堂が完成し、兼実によって供養が執り行われる(「玉葉」同日条)。
興福寺中金堂の本尊は、藤原氏の始祖である藤原鎌足の姿を模して作られたとされる丈六(じょうろく)の釈迦如来で、治承4年(1180)12月、平氏の焼き討ちに遭って焼失した。ところが、炎上翌日、その眉間に納められていた銀仏だけが発見されており、兼実によって中金堂供養の直前、鋳直された。兼実はこの銀仏を自ら慎重に南都へ運び、供養式の前日、銀仏を眉間に奉納した。本尊眉間の銀仏は、鎌足の持仏(じぶつ)とされており、兼実が自らこれを奉納したのは、正統な藤氏長者であることをアピールするためのパフォーマンスであった。
中金堂供養当日は、あいにくの悪天候ではあったが、公卿26名が参加し、「藤氏上達部(とうしかんだちめ、公卿)、地を払い(すっかり)下向」といわれた(『仲資王記』)。
ただ、こうした自信の高まりは驕りにもつながっていく。中金堂供養の前日、奈良に着いた兼実は、藤原氏出身の公卿・殿上人たちを引き連れて、氏神である春日社にも参詣している。このとき、中納言以下の公卿が騎馬で兼実に付き従ったが、これは天皇の行幸・上皇の御幸にならったもので、『愚管抄』(巻第6)は、「アマリナル事(度を超したこと)ナリト人思ヒケリ」との批判があったことを伝えている。兼実は自分の権勢を誇るあまり、天皇に僭越するような振る舞いも見られたという。"
9月26日
「歯御労の事、療治を京都の医師に尋ねられんが為、態と飛脚を立てらるる所なりと。」(「吾妻鏡」同日条)。
9月28日
・大江広元、伊勢神宮・熱田社への神馬御剣奉納を奉行。
10月3日
・藤原定家(33)、左大将家歌合
10月9日
「将軍家小山左衛門の尉朝政が家に入御す。朝政兄弟以下一族群参す。数輩祇候すと。」(「吾妻鏡」同日条)。
10月17日
・安達盛長、歯の病気だった頼朝に、伝えられてきた岡頼基の良薬を取り次ぐ(「吾妻鏡」同日条)。
10月18日
・足利義兼、御使として日向薬師堂に参り、源頼朝の歯痛の平癒を祈る(「吾妻鏡」同日条)。
10月25日
・大江広元、勝長寿院供養願文を清書。
11月2日
・足利義兼・妻北条時子、一切経の書写を完成(「吾妻鏡」)。
13日、足利義兼、将軍家の繁栄祈願のため鶴岡八幡宮に一切経並びに両界曼陀羅二鋪を供養。導師は鶴岡別当法眼。山名義範以下が列座。両界壇所の初代供僧に南蔵坊良成、蓮華坊勝円が兼補。
14日、足利義兼、鶴岡別当法眼円暁に曼陀羅の宮寺への奉納を命じ、上宮東廊に安置したと大江広元に連絡。両界曼陀羅は両界壇所と名付けられ供僧2名が置かれる。供僧は代々足利氏が支配し、供料は毎年足利庄の公文所から送られる。
15日、頼朝・政子、鶴岡八幡宮に一切経と両界曼陀羅との結縁の為参詣。供奉人に山名義範等。後、足利義兼邸を訪問。
11月4日
・八幡宮で神楽。頼朝が参詣。この時、大江久家が秘曲などを唱い、畠山重忠・梶原景季が付け歌を唱う。
11月8日
・幕府、東海道に新駅を増設し駅夫の員数を定める(「吾妻鏡」同日条)。
11月10日
「姫君また御不例。」(「吾妻鏡」同日条)。
11月18日
・北条義時(32)、奉幣使として伊豆三嶋社に向かう。
11月21日
・頼朝、三島別宮に参詣。御霊前浜において小笠懸。足利太郎親成、射手として登場。(「吾妻鏡」同日条)。
11月23日
・藤原定家(33)、鳥羽での美福門院月忌仏事に参加。後鳥羽天皇の閑院内裏への還御に供奉。
12月1日
・頼朝、甘縄の安達盛長の家を訪ねる。盛長が奉行する上野国の寺社はすべて管領するよう指示する(「吾妻鏡」同日条)。
12月2日
・藤原定家(33)、稲荷・祇園両社行幸に供奉
12月2日
・頼朝の御願寺社である鶴岡八幡宮・勝長寿院・永福寺・同阿弥陀堂・同薬師堂(新造中)の五社寺にそれぞれ3人ないし4人の奉行人が定めらる(従来より人数を増やす)。畠山重忠・三浦義澄・義勝房成尋は永福寺奉行人に、大江広元・梶原景時・中原仲業(なかなり)らとともに勝長寿院奉行人に任じられる。
12月9日
・藤原定家(33)、殷富門院仏名に参仕
12月15日
・内大臣藤原忠親、出家。
12月17日
「明春御上洛有るべきに依って、供奉の為東国の御家人等を催せらる。親能惣奉行。行政これを書き下す。」(「吾妻鏡」同日条)。
12月19日
・藤原定家(33)、左大将家歌合
12月26日
・永福寺新造薬師堂の供養。大江広元供奉。源頼朝の供奉人として足利義兼・北条義時(32)ら(「吾妻鏡」同日条)。
つづく
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