建久5(1194)年
・この頃、藤原定家(33)、藤原季能の女を離別し、内大臣西園寺(一条)実宗の女を娶る。
因子(いんし、民部卿典侍)・香(かおる)・為家など相ついで誕生し家計は膨脹。前年(建久4年)母(八条院に仕える)が没し、父俊成には別の妻があり、今まで父母からうけた経済的援助が漸次なくなる。最も重要な経済基盤である荘園も、地頭による所領侵害が激しく、収入減・経営困難は、定家の歌道への専念を妨げる。
仕える九条良経の妻は一条能保の女。俊成の養子定長(寂蓮)の子が一条実宗の養子となり、実宗の知行国若狭の国守となる。西園寺公経の妻も一条能保の妻(良経の妻とは姉妹)。この縁を通じて、藤原定家の政治的地位は向上。定家の子の為家は公経の養子となる。
定家は、寿永2年(1183)頃、藤原季能女と結婚した。季能は六条顕季の流れで、顕季の子長英は白河院の寵臣であった。長実女に美福門院得子があり、鳥羽院後宮に入り近衛天皇が生れている。長英の子頼盛の子が俊盛であり、その子が季能である。季能は俊成の弟子である。しかも俊成にゆかりの深い八条院は、美福門院の姫宮であり、妻の加賀の関りもある。それらの縁で、定家は季能女と結婚した。長男光家が、元暦元年(1184)の頃生れているから、それより遠くない頃と推測される。定家22歳で、季能女は、父の年齢31歳の時であるから、15,16歳の少女であった。光家の次に、定修と女の子2人がある。その後、この妻とは何故か離別した。
1月1日
・頼朝、鶴岡参詣の後、椀飯。足利義兼、御征箭、弓馬以下を進ぜる。里見義成、御釼を持つ(「吾妻鏡」)。義兼は頼朝の「御門葉」(頼朝が親族と認めた源氏)として頼朝の御家人として高い位置におり、 将軍への随行などの序列では常に最上位。
1月8日
・頼朝、安達盛長の甘縄の家を訪問(「吾妻鏡」同日条)。
「将軍家三浦の介義澄が家に渡御す。」(「吾妻鏡」同15日条)。"
1月8日
・北条政子、伊豆・箱根両権現に奉幣のため出発
2月2日
・北条義時(32)嫡男金剛(泰時、13)元服。太郎頼時と号する。式は幕府の西侍の間に、そうそうたる御家人が三行にならんでいるところで行なわれた。畠山重忠は、その一方の筆頭干葉常胤の次に坐を列ねている。足利義兼、山名義範、里見義成出席。里見義成、御釼を伝える。(「吾妻鏡」同日条)。安達盛長、参列。
頼朝は三浦義澄を呼び、この冠者(泰時)を婿にするよう命じ、義澄は孫娘の中からよい女性を選んで仰せに従うと応える。
2月6日
・政子、義時邸に入御。
2月13日
「東大寺の上人来たり、天王寺領住吉社造宮役を免さるべきの由を申す。即ち彼の寺の執行僧弁俊を相具し来たる所なり。・・・この次いでを以て余勘責を加う。披陳方無し。須くその科に処すべし。然れども上人相具して来臨し、平に申請するに依って免し給うなり。」(「玉葉」同日条)。
2月18日
・頼朝、大倉観音堂に参る。戻る途中で義時邸を訪問。
3月9日
「掃部の允藤原の(二階堂)行光、政所寄人に加うと。」(「吾妻鏡」同日条)。
3月14日
・奈良興福寺の衆徒ら、西京を焼く
3月15日
・頼朝、京都から呼び寄せた稚児の芸を披露するとの誘いを受けて、若宮別当(円暁)に坊を訪問。酒宴、稚児の芸、僧らの芸に御供の壮士も加わり壮観なものとなる。頼朝は、工藤祐経が存命であったらきっと興あることだろうと落涙の様子だったという(『吾妻鏡』)。
3月17日
・幕府、諸国守護人の国領違乱を禁じる(「吾妻鏡」同日条)。
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