2023年3月15日水曜日

〈藤原定家の時代300〉建久5(1194)年1月1日~5月29日 定家(33)、藤原季能の女を離別し内大臣西園寺(一条)実宗の女と結婚 義時(32)嫡男金剛(泰時)元服  六代丸(維盛の子、重盛の孫)、文覚の書状を携えて鎌倉入り異志なき旨を申し述べる     

 


〈藤原定家の時代299〉建久4(1193)年8月12日~12月15日 頼朝、弟範頼を伊豆修禅寺へ放逐、ついで梶原景時に命じて殺害 恩赦に浴した佐々木定綱、鎌倉に到着、近江守護、続いて長門・石見守護も兼任 安田義資、自刃・梟首 父安田義定、縁坐に問われ、翌年、反乱を理由に梟首 より続く

建久5(1194)年

・この頃、藤原定家(33)、藤原季能の女を離別し、内大臣西園寺(一条)実宗の女を娶る。

因子(いんし、民部卿典侍)・香(かおる)・為家など相ついで誕生し家計は膨脹。前年(建久4年)母(八条院に仕える)が没し、父俊成には別の妻があり、今まで父母からうけた経済的援助が漸次なくなる。最も重要な経済基盤である荘園も、地頭による所領侵害が激しく、収入減・経営困難は、定家の歌道への専念を妨げる。

仕える九条良経の妻は一条能保の女。俊成の養子定長(寂蓮)の子が一条実宗の養子となり、実宗の知行国若狭の国守となる。西園寺公経の妻も一条能保の妻(良経の妻とは姉妹)。この縁を通じて、藤原定家の政治的地位は向上。定家の子の為家は公経の養子となる。

定家は、寿永2年(1183)頃、藤原季能女と結婚した。季能は六条顕季の流れで、顕季の子長英は白河院の寵臣であった。長実女に美福門院得子があり、鳥羽院後宮に入り近衛天皇が生れている。長英の子頼盛の子が俊盛であり、その子が季能である。季能は俊成の弟子である。しかも俊成にゆかりの深い八条院は、美福門院の姫宮であり、妻の加賀の関りもある。それらの縁で、定家は季能女と結婚した。長男光家が、元暦元年(1184)の頃生れているから、それより遠くない頃と推測される。定家22歳で、季能女は、父の年齢31歳の時であるから、15,16歳の少女であった。光家の次に、定修と女の子2人がある。その後、この妻とは何故か離別した。


1月1日

・頼朝、鶴岡参詣の後、椀飯。足利義兼、御征箭、弓馬以下を進ぜる。里見義成、御釼を持つ(「吾妻鏡」)。義兼は頼朝の「御門葉」(頼朝が親族と認めた源氏)として頼朝の御家人として高い位置におり、 将軍への随行などの序列では常に最上位。

1月8日

・頼朝、安達盛長の甘縄の家を訪問(「吾妻鏡」同日条)。

「将軍家三浦の介義澄が家に渡御す。」(「吾妻鏡」同15日条)。"

1月8日

・北条政子、伊豆・箱根両権現に奉幣のため出発

2月2日

・北条義時(32)嫡男金剛(泰時、13)元服。太郎頼時と号する。式は幕府の西侍の間に、そうそうたる御家人が三行にならんでいるところで行なわれた。畠山重忠は、その一方の筆頭干葉常胤の次に坐を列ねている。足利義兼、山名義範、里見義成出席。里見義成、御釼を伝える。(「吾妻鏡」同日条)。安達盛長、参列。

頼朝は三浦義澄を呼び、この冠者(泰時)を婿にするよう命じ、義澄は孫娘の中からよい女性を選んで仰せに従うと応える。

2月6日

・政子、義時邸に入御。

2月13日

「東大寺の上人来たり、天王寺領住吉社造宮役を免さるべきの由を申す。即ち彼の寺の執行僧弁俊を相具し来たる所なり。・・・この次いでを以て余勘責を加う。披陳方無し。須くその科に処すべし。然れども上人相具して来臨し、平に申請するに依って免し給うなり。」(「玉葉」同日条)。

2月18日

・頼朝、大倉観音堂に参る。戻る途中で義時邸を訪問。

3月9日

「掃部の允藤原の(二階堂)行光、政所寄人に加うと。」(「吾妻鏡」同日条)。

3月14日

・奈良興福寺の衆徒ら、西京を焼く

3月15日

・頼朝、京都から呼び寄せた稚児の芸を披露するとの誘いを受けて、若宮別当(円暁)に坊を訪問。酒宴、稚児の芸、僧らの芸に御供の壮士も加わり壮観なものとなる。頼朝は、工藤祐経が存命であったらきっと興あることだろうと落涙の様子だったという(『吾妻鏡』)。

3月17日

・幕府、諸国守護人の国領違乱を禁じる(「吾妻鏡」同日条)。


4月10日
・幕府、梶原景時を奉行として鎌倉の道路を修築(「吾妻鏡」同日条)。

4月21日
・六代丸(維盛の子、出家して妙覚)は文覚の書状を携えて鎌倉に入り、大江広元を介して異志なき旨を申し述べる。

5月4日
・中原季時が寺社からの訴訟を取り扱うよう命じられる(『吾妻鏡』)。

5月6日
・藤姓足利忠綱、没か。

5月10日
「砂金百三十両を京都に進せらる。且つは伝え献るべき由、一條前の中納言(能保卿)の許に仰せ遣わさると。これ東大寺大佛の御光料、去る春の比進せらるるの残りなり。三百両入るべきの由と。」(「吾妻鏡」同日条)。

5月14日
・六代丸(維盛の子、出家して妙覚)のことについて審議。暫く関東に留まるようという。これは平治の乱において、重盛(維盛の父)が源家のために取りなしたことを忘れていないからだという(『吾妻鏡』)。

5月29日
・東大寺大仏殿再建事業がいよいよ最終段階。この日、京都の吉田経房より東大寺供養の雑事目録が鎌倉に到着。大江広元は問注所執事三善康信とともに、御家人に布施や僧供料米(ぞうくりようまい)の勧進を命じる頼朝の指令を諸国守護人に伝える。

文治元年頃より、頼朝は東大寺大仏殿再建のための勧進を請け負った重源に全面協力の姿勢を見せており、広元も重源との間で実務上の連絡を緊密にとっていたと思われる。建久3年(1192)8月10日、広元が父母のために経・香炉・玉幡(ぎよくばん)などを重源に寄進したことを示す文書が伝存している。


つづく

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