建久4(1193)年
6月5日
・常陸大掾の多気義幹が八田知家の讒言によって失脚
「八田右衛門の尉知家と多気の太郎義幹とは常陸の国の大名なり。強ち宿意を挿まずと雖も、国中に於いて相互いに聊か権勢を争う者なり。・・・仍って義幹防戦の用意を構え、一族等を相聚め、多気山城に楯籠もる。これに依って国中騒動す。その後知家また雑色男を遣わし、義幹に告げ送りて云く、富士野の御旅館に於いて狼藉有るの由風聞するの間只今参る所なり。同道すべし。てえれば、義幹答えて云く、所存有って参らずと。この使いに就いて、義幹いよいよ以て防禦の支度を廻すと。」(「吾妻鏡」同日条)。
「八田右衛門の尉知家、義幹野心有るの由を訴え申す。これを聞こし召し驚き、義幹を召し遣わされをはんぬ。」(「吾妻鏡」同12日条)。
「城郭を構え軍士を聚むるの事に於いては、承伏し遁るる所無し。仍って常陸の国筑波郡・南郡・北郡等の領所を収公せられ、その身を岡部権の守泰綱に召し預けらると。所領等に於いては、則ち今日馬場の小次郎資幹に賜ると。因幡の前司廣元これを奉行す。」(「吾妻鏡」同22日条)。
6月7日
「駿河の国より鎌倉に還向し給う。而るに曽我の太郎祐信御共に候ずるの処に、路次に於いて暇を給わる。剰え曽我庄の乃貢を免除し、祐成兄弟が夢後を訪うべきの由仰せ下さる。これ偏に彼等が勇敢の怠り無きを感ぜしめ給うに依ってなり。」(「吾妻鏡」同日条)。
「故曽我の十郎が妾(大磯の虎、除髪せずと雖も黒衣の袈裟を着す)、亡夫三七日の忌辰を迎え、箱根山の別當行實坊に於いて佛事を修し、和字の諷誦文を捧ぐ。葦毛の馬一疋を引き、唱導の施物等と為す。件の馬は、祐成最後に虎に與うる所なり。則ち今日出家を遂げ、信濃の国善光寺に赴く。時に年十九歳なり。見聞の緇素悲涙を拭わざると云うこと莫しと。」(「吾妻鏡」同18日条)。
6月20日
「炎旱旬を渉り、民黎雨を思う。これに依って鶴岡・勝長寿院・永福寺の供僧祈雨法を奉仕す。善信奉行として各々奉書を遣わすと。」(「吾妻鏡」同日条)。
6月25日
「文覺上人、東大寺造営料の国領を以て、或いは弟子と称し或いは檀那分と号し、俗人に與うるの由その聞こえ有るに依って、事実ならばすでに佛法を興隆するの志に非ず。定めて婪人の用を貪るの謗りを招くか。且つは上人将軍家の御吹挙を預かり、彼の在所を知行せしむるの処、この儀に及ばば、世上の嘲り関東に帰すべきや。殊に痛み思し食さるるの旨、諫諍を加えんが為、今日梶原刑部の丞朝景並びに安達の新三郎清恒を京都に遣わさると。」(「吾妻鏡」同日条)。
「梶原刑部の丞朝景京都より帰参す。文覺上人の状到着す。東大寺の料所を以て俗人に分與する由の事、殊に陳じ申して云く、当寺再興の事、その志太だ甚深たり。而るに国民近日奸濫を巧むの間、身を惜しみ小僧成敗に拘わらざるに依って、親族の寄せ有るの輩を以て兵士と為し国領等に入部す。若しくはこの事讒訴の基たるか。猶この濫讒を入るの族は、永く今生の願望を断ち、後世無間地獄に墜とし、浮期無きの趣これを載す。凡そ悪口を以て事と為す。頗る将軍の御意に叶わずと。」(「吾妻鏡」7月28日条)。
7月4日
・後鳥羽天皇宣旨。宋銭の通用を停止。五畿七道に宣下し荘園・公領を問わず神宮造替役夫工米を課し永例とする。
7月9日
・野分の日、定家、五条へ行き俊成と唱和。
8月2日
・範頼、この年5月の富士の巻狩りの時、頼朝が狩場で討たれたとの誤報が政子に伝わり、それがもとで範頼に謀反の疑いがかけられる(「保暦聞記」)。この日、「貮(ふたごころ」無きを誓う起請文(大江広元が取り次ぐ)を提出。これも認められず、17日、伊豆に下向。
大江広元を介して範頼に起請文を見た頼朝は、「名に源の字を載せている。これは頼朝と一族であると言いたいのか。非常に過分な考えである。これが起請の失(しつ)である」と言う。広元を介してこれを聞いた範頼の使者は、「範頼は美智の子息で頼朝の舎弟である。元暦元年秋、舎弟範頼を以って西海追討使に派遣すると頼朝の御文に奏聞したので、官符にも載っている。勝手な行為ではない」と答える。その後、頼朝からは言葉がないので、使者は退出して、このことを範頼に告げた。範頼は狼狽したという(『吾妻鏡』)。
「参河の守範頼起請文を書き将軍に献ぜらる。これ叛逆を企てるの由聞こし食し及ぶに依って、御尋ねの故なり。その状に云く、・・・而るに今更誤らずしてこの御疑いに預かること、不便の次第なり。所詮當時と云い後代と云い、不忠を挿むべからず。早くこの趣を以て子孫に誡め置くべきのものなり。万が一にもこの文に違犯せしめば、・・・等の神罰を源範頼が身に蒙るべきなり。仍って謹慎起請文を以て件の如し。・・・この状因幡の守廣元に付して進覧するの処、殊に咎め仰せられて曰く、源の字を載せること、若しくは一族の儀を存ずるか。頗る過分なり。これ先ず起請の失なり。使者に召し仰すべしと。廣元参州の使い大夫屬重能を召し、この旨を仰せ含む。重能陳べて云く、参州は故左馬の頭殿の賢息なり。御舎弟の儀を存ぜらるるの條勿論なり。随って去る元暦元年秋の比、平氏征伐の御使いとして上洛せらるるの時、舎弟範頼を以て西海の追討使に遣わすの旨御文に載す。御奏聞するの間、その趣を官符に載せらるるなり。全く自由の儀に非ずと。その後仰せ出さるる旨無し。重能退下し、事の由を参州に告ぐ。参州周章すと。」(「吾妻鏡」同2日条)。
8月6日
「宇佐美の三郎祐茂伊豆の国より参上す。仰せ付けらるべき事有るに依って召さるるが故なり。凡そ御意に相叶うの上、故左衛門の尉祐経横死の後、殊に昵近に候ずべきの旨仰せ含めらるるの処、日来然るべからざるの由と。この外腹心の壮士これを召し聚めらる。近日御用意有るに依ってなり。」(「吾妻鏡」同6日条)。
8月10日
・鎌倉中が騒動、壮士らが甲冑を着て幕府に馳せ参じたが、程なく静まった。これは、範頼の家人当麻(たいま)太郎が頼朝の寝所したに潜んでいて捕らえられたからであった。当麻は起請文の件以降何の問い合わせもなく、範頼も悲嘆に暮れていることから、内々の事情を知りたいと思って来ただけで、陰謀ではないと弁明。しかし、不審があると判断され、許されなかった。のち、薩摩国に配流。
「寅の刻に鎌倉中騒動す。壮士等甲冑を着し幕府に馳参す。然れども程なく静謐せしめをはんぬ。これ参州家人當麻の太郎御寝所の下に臥す。将軍未だ寝しめ給わず、その気を知らし食し、潛かに結城の七郎朝光・宇佐美の三郎祐茂・梶原源太左衛門の尉景季等を召し、當麻を尋ね出し、召し禁しめらるるに依ってなり。曙の後推問せらるるの処、申して云く、参州起請文を進せらるるの後、一切重ねて仰せの旨無く、是非に迷いをはんぬ。内々御気色を存知て、安否を思い定むべきの由、頻りに愁歎せらるるに依って、もし自然の次いでを以て、この事を仰せ出さるるや否や、形勢を伺わんが為参候する所なり。全く陰謀の企てに非ずと。則ち参州に尋ね仰せらる。覚悟せざるの由を申せらる。當麻が陳謝詞を盡くすと雖も、所行の企て常篇に絶えるの間、日来の御疑貽に符号す。その上當麻は、参州殊に相憑まるるの勇士、弓劔の武芸にすでにその名を得るの者なり。心中旁々不審有るの由沙汰を経られ、寛宥の儀無し。剰え同意結構の類有るや否や、数箇の糺問に及ぶと雖も、當麻気を屈し、更に一言を発せずと。」(「吾妻鏡」同10日条)。
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