1905(明治38)年
9月5日 日比谷焼打事件③
2時、「国民新聞」社、群衆6千に包囲。窓ガラス・扉の全て破壊。
国民新聞に集結した群衆は社内に石を投げつけガラス窓を破った。中には庇に上って社の看板を外そうとする者もあった。また街路樹の枝によじ登ってそこから2階に押し入ろうとする者もあった。「壮士ハ社内に闖入し硝子を破壊する音物品の墜落する音と鯨波(ときのこゑ)と相和して物凄く聞こえた」。暴徒の一部は印刷室に押し入り、ありあわせの鉄棒で輪転機を傷つけ、活字を床にぶちまけた。警官はやって来ず、国民新聞社は群衆のために踏み荒されそうになった。
社員の栗原武三太、阿部充家等が、刀を抜いて群衆に切り込んだ。その時御用壮士の日比野雷風も鉢巻をし、襷を十字にかけ、刀を抜いて飛び出したが、慌てていたため入口の柱に刀を力一杯切り込み、それが抜けずに困っている所へ石を投げつけられて、額に怪我をした。しかし、この抜刀隊の勢によって、やっと群衆は国民新聞社に侵入することをあきらめた。そこへ警官が駆けつけたので、徳富蘇峰は漸くほっとした。
結局、国民新聞社は窓ガラスや扉のすべてと輪転機の一部を破壊された。
このため、印刷機械に故障が出て社内印刷が不可能となり、秀英舎に印刷を頼むという噂が出た。すると暴徒は近くの秀英舎を襲って、またそこに相当の損害を与えた
その後、多数の騎馬警官隊により追い散らされた群衆は内務大臣官邸前に集まる。ここでも群衆と警官双方で数十名の負傷者が出ている。
午後4時、官邸の北側で巡査が抜剣する。「群衆を逐捲くうち、十三四歳の小児の左腕に斬り付け殆んど斬り落すばかりの重傷を負はす見るから凄まじき有様なり」。この事件がきっかけで群衆はさらに激昂する。
午後6時、群衆の一部は官邸内に入り、第4号官舎を焼き払う。官邸側は近衛師団の出動を要請したため、騒乱はやがて都心から周辺部へと移動して行く。
第2回目は午後8時~11時、第3回目は翌6日早朝(最初ほどの騒ぎにならず)。
「国民新聞」は販売系統も殆ど破壊され多くの顧客を失う。暫くの間、全国市町村役場に無代配布して顧客取戻し努力する。
2時頃、日比谷公園を徘徊して騎馬警察隊に追われた群衆が公園正面前の内相芳川顕正官邸前に集合。群衆の投石を受けた警官が官邸内に逃込み、群衆は門を破り、門内の守衛小屋を破壊し玄関に迫る。
3時頃、麹町警察署長は警官隊に抜剣命令。抜剣警官数人が群衆を斬り付ける。
日比谷公園のすぐ前には、また天皇の生母であった中山一位の局の邸宅があった。その角のところで群衆は何台もの市街電車に石油をかけて火をつけた。その火が中山邸のまわりを取り巻く長屋に燃え移った。中山一位の局は外の騒擾を恐れて屋敷を抜け出すこともできず、進退谷(きわ)まっていたが、幸に本邸は焼けなかった。
午後5時~9時、芝・紅葉館で有志懇親会。200人参加。
内田良平は、国民大会後、翌6日のハリマン歓迎会で行う予定の武道の練習。のち、紅葉館に出かけ、これを中座して各所の騒擾を見て廻る。
この日、昼間は猛暑。その後、夜になって雨が降ったが、騒ぎはむしろ拡散する。
5日夜から6日夜にかけ、7ヵ所の警察分署と219ヵ所の派出所・交番が焼き払われ、2ヵ所の警察分署、45ヵ所の派出所・交番が破壊され、53棟の民家が被害に遇った。
群衆の襲撃に対し、警官は抜剣して追い払っている。"
6時頃、壮士5~6人が内相官邸のレンガ塀を壊し裏手から建物に石油で放火。「日比谷焼打事件」の発端。消防署員は群衆に遮られ負傷しながらも消火活動するが、2棟が全焼、鎮火。
6時10分、官邸裏門突破時、内相は東京衛戍総督佐久間左馬太大将に出兵要請、近衛歩兵第1連隊補充大隊に出動下命。
7時40分、別の一群が官邸の屋根に登り2度目の放火。
8時頃、先発1個中隊300、官邸前着。群衆は気勢をそがれる。
同時刻頃、外務省(構内に外相官邸)も襲撃される。軍隊出動したため、群衆は芝方面、神田方面に分派してゆく。警察には強い反撥を示す庶民も軍隊には従順。
黒龍会佃信夫は、内相官邸焼討ち現場などで指揮するのを目撃される(本人は否定)。京橋警察署長田川誠作の報告書にも記述あり。
夜、騒動を知った江見水蔭は書生の渡辺飛水を連れて、電車で新橋まで行って見た。電車はそこから先へは行かず、そこの橋詰めの交番が焼かれていた。歩いてゆくと西銀座の出雲町の資生堂前の交番も、街頭まで持ち出されて焼かれていた。日比谷へ行こうとして、帝国ホテルの前まで来ると、軍隊が出動して、通ることができなかった。新橋の方へ戻ると、その近くの日吉町にある国民新聞社は巡査の一隊で守られていた。江見はそこから歩いて行ったが、金六町の小路で暴徒の一団に逢い、更に芝口では、血迷った巡査が抜剣して暴れまわるのを見た。
神田方面では、佐久間町・土橋・出雲町派出所、京橋分署破壊・放火。芝方面。
午前2時30分、深川署と裏手の女子技芸学校、放火。下谷署放火。
午前4時、浅草署日本堤分署放火。民家49類焼。空が白みかける頃解散。
被害。焼失:警察署(下谷、深川)、警察分署7、派出所175、民家51、学校1。破壊:警察分署1.派出所39。負傷者:警官・消防士・軍人494(警官454)、市民528(内、死亡17、警官の抜剣によるもの271)。
「昨晩一時頃に至り百五六十名の者押し寄せ来り野次馬連も加はりて英数幾千なるを知らず雨霰と瓦礫を投じ或ハ仕込杖を抜放して咄嗟(あはや)署内へ斬込んとするより巡査一同帯剣を抜放し勢ひ込んで突貫したるより来襲者ハ不意を喰って狼狽し忽ち一場の格闘となり遂に七十名拘留せらるゝに至れり(本郷署)」。
「三百余人潮の寄するが如く署内に闖入し来りたれバ衆寡敵せざるハ素よりなるまゝ署員ハ抜剣して防がんとすれども、・・・何時か群集ハ署内へ入込み三回まで石油を灌いで爆発せしめ電信係の一室を破壊し署内ハ乍ら一面の火となる(下谷署)」。
夜、群衆、ニコライ堂に石油を撒いて火をつけようとするが、警官・軍隊100余が駆けつけ無事。「某近衛騎兵特務曹長 ニコライ堂に押寄せる群衆を説諭す(五日夜半)」(「東京騒擾画報」)。
夜半、赤羽橋際派出所を襲った一団は、「肉襦袢の肌脱ぎにて高く棍棒をかざせる五、六名の巨魁を先頭にして手にゝゝ棍棒を携え鬨をつくって襲撃」したという(「萬朝報」7日)。
都市の下層に隣接する階層の人々で、彼らは日露戦争の影響を正面からうけ、煙草・砂糖などの大衆課税導入がその生活。産業化の中で生業の不安定さも顕著(人力車夫は路面電車(1903年)により顧客を失いつつある)。
起訴された者の内訳では、「人足」「車夫」「職人」など、都市で雑業に携わる者や、「職工」「商人」などが多い。彼ら都市における「雑業層」は、生業の場で、親方・中小商店主・中小工場主(「旦那衆」)雇われ、商店・旦那衆が経営する借家・借間に住まい、生業・居住の場で旦那衆に二重に従属。
一方、日比谷公園に集まった人々には、「雑業層」とは異なる階層もみられる。「萬朝報』は、日比谷公園に集結し新富座の演説を聞こうとする人々の多くは「地方より来れる人」であり、年齢は「四十以上の分別盛り」で身なりも整い、髯をたくわえたものや、「軍人遺族」が多いともいう。また、公園内の集会参加者には、「殆んどあらゆる階級、あらゆる職業」の人々がおり、年齢・性別も様々だが、「皆な其父兄愛子を犠牲」とし、「元老閣臣に向って深き憤りを有し深さ怒りを抱ける人々」とされる。旦那衆の関わりを示す。
9月5日に関わった人々には、講和問題同志連合会など講和反対大会を主導しそこに集まった「旦那衆」と、騒擾に積極的に参加した「雑業層」との2層がみられる。旦那衆が関わる非講和運動は、この前後に全国的に広がり、大阪、名古屋、京都、福岡の大都市をはじめ、呉、栃木、富山、岐阜など各地で大会が開かれ、数千の参加者がみられ、200を越える講和「反対決議」「上奏」が出される(「鳴呼九月五日」1909年)。
徳富蘇峰の弟の蘆花は、明治35年末から兄の蘇峰と交りを絶っていた。彼はトルストイを愛し、自ら人道主義者を以て任じていた。しかしこの戦争に関する限り彼は、ロシアが負けていながら日本に対して傲慢であると言って腹を立てていた。兄蘇峰がこの日の朝の社説で「日本国民は合衆国大統領の調停の労をとった交誼に対して謝せねばならぬ」と書いたのを読んだ時、蘆花はせせら笑ってその新聞を投げ出した。彼は感情的には暴徒たちの方に味方していた。
9月5日
堺利彦(36)・延岡為子(34)結婚式。まもなく、西川光二郎・松岡文子も結婚。

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