2025年9月25日木曜日

大杉栄とその時代年表(628) 1905(明治38)年11月14日~20日 幸徳秋水(34)、横浜港から伊予丸で出航、アメリカに向かう。「多くの洋行者は、洋行に依て名を得んとせり、利を射んとせり、富貴功名の手段となせり、此如き洋行者は洋行を以て名誉となせり、愉快となせり、所謂壮遊なるものとせり、我れに於ては然らず、我れの去るは去らんと欲するが故に非ず、止まらんとして、止まる能はざれば也。」

 

幸徳秋水、妻の千代子

大杉栄とその時代年表(627) 1905(明治38)年11月10日~13日 「11月13日、われわれはメンシェヴィキと協力して、大規模な政治機関紙『ナチャーロ(出発)』を創刊した。発行部数は、日をおってどころか、時間をおって拡大した。レーニンのいないボリシェヴィキの『ノーヴァヤ・ジーズニ(新生活)』はぱっとしなかった。それにひきかえ『ナチャーロ』は巨大な成功をおさめた。」(トロツキー『わが生涯』) より続く

1905(明治38)年

11月14日

幸徳秋水(34)、横浜港から伊予丸で出航、アメリカに向かう。留学する医師加藤時次郎長男時也と画家志望の甥幸徳幸衛を同行。

11月29日シアトル着、12月5日SF着。39年6月23日香港丸で横浜港に帰着。

幸徳が外国行きの希望を加藤時次郎に相談すると、加藤は、サンフランシスコぐらいなら旅費と半年か1年の滞在費は出してやろう、と言った。友人たちも、彼の外遊に賛成した。母は国許へ預けることにした。妻千代子の姉須賀子は判事松本安蔵の妻になって金沢に住んでいたので、妻はそこへ預けるか、金の集まり具合では連れて行ってもいいと思った。千代子は国文学の素養が深く、日本画に巧みであった。結局、幸徳は母を郷里の家を継いでいる義兄幸徳駒太郎に預け、駒太郎の息子で東京の自宅に置いていた甥の幸衛を連れて行くことにした。

幸徳は伊予丸でこう書く。

「多くの洋行者は、洋行に依て名を得んとせり、利を射んとせり、富貴功名の手段となせり、此如き洋行者は洋行を以て名誉となせり、愉快となせり、所謂壮遊なるものとせり、我れに於ては然らず、我れの去るは去らんと欲するが故に非ず、止まらんとして、止まる能はざれば也。」

彼は、激しい弾圧により、日本ではこれ以上積極的な展開は出来ないと考えた。彼は、獄中で読んだクロボトキンなどの影響を受け、新しく無政府主義の研究を志し同志の多いアメリカに行って、身体を休めるとともに在留する日本人同志のカを集めるというのが目的であった。

「一貧洗ふが如き我は、何の処より遠遊の資を得しや、・・・。細野次郎君、竹内虎治君。加藤時次郎君。福田和五郎君、小島龍太郎君、幸徳駒太郎君、大石誠之助君、小泉策太郎君、片野文助君、是等の諸君が或は三十円、或は百円と給与せられたもの一千金を得た。」とし、その一半を出獄以後の生活費に充て、その一半は携えて日本を去った、と書いた。

11月14日

堀内紫玉、没。翌年2月「紫玉遺稿」刊行、序文啄木。

11月15日

韓国、伊藤特派大使、再度高宗会見。日韓新協約(保護権設定)について陳説、保護国承認強要、恫喝

午後、林公使は外部大臣朴齊純を公使館に呼出し、条約案文・照会文を手渡し、翌16日に伊藤特使が閣僚に説明すると告げる。

11月15日

ロシア・バルチック艦隊司令官ロジェストヴェンスキー中将一行、神戸港より帰国。

11月16日

韓国、伊藤特派大使、大韓政府大臣をソンタク・ホテルに集め、条約案文を説明。公使館付通訳塩川一太郎が通訳。伊藤は各大臣に意見を求める。反対もしくはすぐには結論がでないという回答。

のち、徳寿宮で御前会議。反対の決心固める。

11月16日

東京市会、警視庁廃止を決議。

11月16日

警視庁廃止期成会、発会式と演説会。江東・伊勢平楼。高橋秀臣(国民倶楽部、旧同志連合会幹部)、肥塚龍(東京参事会員)は弁士中止。松田源治(弁護士、のち文相)ら3人演説。角田真平は途中で弁士中止。江間俊一(東京市参事会)にも中止命令、解散。23日にも「期成同盟会」の政談演説会。

11月17日

(漱石)

「十一月十七日(金)、菓京帝国大学文科大学で Tempest を講義す」(荒正人、前掲書)

11月17日

米大統領宛韓国皇帝親書携えた米人ハルバート、ワシントン着。ルーズベルト大統領会見拒否。

11月17日

韓国、第2次日韓協約(乙巳条約)強制調印

韓国の外交に対する日本の管理指揮、漢城に統監駐在を定め、保護国化する。

23日、公示。各地で反日蜂起・義兵闘争。

30日 侍従武官長閔永煥、憤慨自殺。

この日、歩兵1大隊・砲兵中隊・騎兵連隊、ソウル市内行進。公使館のある倭城台に大砲を引上げ、砲口を王宮に向けさせる。

午前11時、林公使、各大臣を日本公使館に招集、予備交渉。進展せず、御前会議開催要求。

午後3時、諸大臣、参内。林公使も王宮に向かう。王宮周辺は日本軍が警備。御前会議は結論出ず。

午後7時頃、再度協議し、交渉延期を求めることを決める(学部大臣李完用は条文修正を求める意見。数人が同意の様子。参政(総理)大臣韓圭かが反対)。

御前会議終了前、休憩所の林公使は伊藤特使に伝令。やがて、御前会議を終えた閣僚が退出し、中明殿の一室で林公使と再交渉。

この頃(夜8時)、伊藤公使・長谷川好道(大将)駐剳軍司令官・小山三己憲兵隊長・随員らが徳寿宮に到着。日本兵も王宮に入る。間もなく、伊藤特使は中明殿に現れ、各大臣の賛否を問う。参政大臣韓圭かは反対。外部大臣朴齊純は不明瞭、絶対反対でないと見做される。度支部大臣閔泳綺は反対。法部大臣李夏栄は反対。内部大臣李址鎔は反対を唱えず。軍部大臣李根沢も反対せず。学部大臣李完用は条約案文に注文をつけ、伊藤は条約を修正(4項目を5項目とする)。農商工部大臣権重顕は李完用と同じ。

午後11時、「乙巳五賊」と呼ばれる大臣5人の賛成で可決。

午後11時30分、林公使・朴齊純外相記名。

午前1時30分、朴齊純外相、職印押印。

夜、李完用邸焼き討ち。


11月18日

韓国、乙己五賊暗殺計画、事前発覚。容疑者11人逮捕、獄死。群衆が王宮正門(大漢門)に押しかける。商店は休業。

11月18日

清国、立憲大綱の準備を発令。

11月18日

ノルウェー、ホーコン7世、即位(~1957年)。

11月19日

清国で幣制制定。

11月20日

韓国、「皇城新聞」社説、「是日也放声大哭」(主筆:柳瑾)。即日、張志淵社長逮捕。会社閉鎖、~翌年2月。この間に張志淵は社長の座を奪われる。

「大韓毎日申報」も「乙巳保護条約」締結の顛末を詳細に報道。また、英「デイリー・ニュース」特派員エルネスト・ベゼル(同社社長)・梁起鐸・朴殷植・申采浩(シン・チェホ)が特別記事を書く。ベゼルは治外法権を利用して大韓毎日申報社を設立、排日論を展開。高宗もひそかにこれを後押し。


11月20日

西川光二郎・堺利彦ら凡人社設立、西川光二郎・山口義三ら平民社主流派、「直言」の後継紙「光」(半月刊)創刊。キリスト教派分離後の社会民主主義機関誌。

山口「我利主義を正義と称して労働者にアキラメ的道徳を脅迫する内村鑑三氏」。

執筆者:幸徳秋水・森近運平・田添鉄二・片山潜・荒畑寒村・竹内余所次郎・金子喜一・大石禄亭・堺利彦・久津見蕨村・児玉花外・白柳秀湖・大塚甲山・小野有香・土屋窓外・原霞外・岸上克己ら。

日刊「平民新聞」発行準備ができ、明治39年12月29日発展的廃刊。

幸徳秋水「予の感懐(平民社解散に寄せて)」

「▲平民社は解散したり、禁錮、罰金、器械の没収に継ぐに、戒厳令施行、長日月の発行停止及び第二回の罰金を以てせる今日において、平民社を維持せんには、予の財嚢は余りに乏しく、予の健康は余りに衰え、予の才識は余りに疎なりき、慚謝す、諸兄姉よ、予が諸兄姉の寄託に背けるの罪まことに遁るる所なし。

▲然れど結社集会の解散や、新聞雑誌の廃滅や、是れ独り一平民社のみならずして、世界いずれの国の社会主義者といえども其運動の初めに当っては、みな同一の運命に遭遇せざるはなし。彼のカール・マルクスの如き偉人の運動においてすら、その新聞雑誌は幾度か政府の迫害もしくは財政困難のために廃止し亡減し、その結社は幾度か外部の圧迫もしくは内部の紛擾のために解散し分離せるにあらずや、況んや予等、後進の運動にして日浅く人少なき日本社会党が今日あるは毫も怪しむに足らざる也。

▲蓋し万国社会主義の運動は、その集会結社や言論出版や、解散また解散、禁止また禁止、数回、数十回、数百回の困頓磋鉄を経て、漸次にその勢力を増大せるにあらざるはなし。故に我等同志の運動は、ただ忍耐し忍耐し、巓びては起き、巓びては起き、一人倒るれは二人継ぎ、前者殪(たお)るれは後者進んで幾年、幾十年の日月を経て初めてその目的を達し得べきのみ。もしそれ一結社の解散、一雑誌の廃止を見て失望落胆するが如きは、真に我が大主義大理想に対する信念誠意の足らざるに依らずんはあらず。

▲然り、一平民社の解散、一直言の停刊は決して彼等武断政治家の妄想するが如く、世界の大思潮たる社会主義運動そのものを停止し得べきにあらず、もし我等同志の忍耐にして継続し、我等同志の誠意にして鞏固ならんか、一平民社の解散は更に数平民社を生み、一『直言』の停刊は更に数『直言』を生むこと、恰も一団の猛火砕けて教団、数十団の飛火となるが如くならん。

▲果然、木下、安部、石川の諸君は『新紀元』に拠て新たに基督教社会主義を唱道し、西川、山口の諸君、また本誌を以てマルクス派社会主義の運動を続けんとし、……堺君もまた続々社会主義の書籍出版を計画し、……此の如くにして日本社会主義の思想及び運動は、或は陰に或は陽に曾て寸毫もその勢力を減少することなくして、益々蔓延拡張しつつある也。

▲ただ此の如く各地に分布蔓延せる思想と運動とを連絡合同整斉して、以て厖然たる大勢力、大党派となし、日東の政界を席捲するは、一に全国同志諸兄姉の忍耐と誠意とに俟たぎるべからず、然りただ忍耐のみ誠意のみ。」

山口義三;

「山口は二十二、三歳の青年で孤剣と号し、その作るところの長詩短歌、特に小田頼造とともに敢行した社会主義伝道行商の日記は、週刊『平民新聞』および『直言』 に連載されて、同志には馴染の深い名であった。しばしば開かれた社会主義演説会で、彼の熱烈火の如き雄弁に魅せられた者も少なくはないだろう。彼が郷里下の関を出でて東京に遊学中のある日、本郷のキリスト教会の前を通ると「信ずるか信ぜざるか 牧師宮崎八百吉」と記された立看板が眼についた。宮崎八百吉は湖処子と号し、その著書『帰省』は当時、洛陽の紙価を高からしめたものである。山口は湖処子の風丰(ふうぼう)を見たい好奇心から傍聴したのだが、その説教を聴いてたちまち其場で入信し、熱烈なキリスト教信者となった。だが、彼はやがてトゥルゲーニェフの小説『父と子』の主人公バザーロフの如く、ビュヒネルの『物質と勢力』を読むに及んで翻然として信仰を一擲し、社会主義に改宗したのである。後日、平民社に出入するようになった時、彼はすでに『社会主義と婦人』および『破帝国主義論』の二小著を有していたが、それにはまだ「万軍の主エホバ」云々というような、旧信仰の名残をうかがわせる辞句がのこっていた。毎週土曜日の午後、定連の同志が平民社に集まって刷り上がって来た『平民新聞』を発送したあと、一同会食の際に幸徳秋水がキリスト教の非科学性などを指摘して揶揄すると、まだ完全にキリスト教の影響を脱しきらぬ山口は、「それは先生がまだ新神学を知らないからです」などとムキになって抗弁するのを、一同おもしろがって唆(け)しかけたりしたものである」(荒畑『続平民社時代』)


11月20日

(漱石)

「十一月二十日(月)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで「十八世紀英文学」を講義する。」(荒正人、前掲書)


つづく


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