1905(明治38)年
9月7日 日比谷焼打事件⓺
夕方、東京市内で警察官所2ヶ署焼打ち。事件は収束。
事件は東京だけで終わらず、7日夜は神戸、12日夜は横浜で交番焼き打ちが起こる。神戸では10数名が検挙され、横浜では93名が兇徒嘨聚罪で起訴されている。
講和反対の大会、演説会は1道3府40県にわたり、決議数は230余件に達した。
負傷者:官吏側502(警視6、警部26、巡査422、消防・軍人42)、民衆側528(うち死者17)。但し、負傷は1千~2千といわれる。検挙2千(うち1千はすぐ釈放、起訴300余)
日比谷焼き打ち事件だけでも警察に引致された者は1,700余名。うち起訴された者は308。河野広中などの大会委員も検挙されているが、大半は職人・職工(108)、人足・車夫・馬力(55)。営業主が47名いるが、酒商、古物商、油商、魚商、絵葉書商といった零細な商人たちで、他は店員と学生。
現行犯処分とされた105名のうち90名が予審免訴。公判で有罪の判決を受けたものは87名のみ。多くの者が負傷を根拠に検挙されていた。
〈暴動参加者の相貌〉
「なぜ暴動発生の経緯を知らない人までもが、急に焼き打ちに加わったのだろうか。この点を理解するために、どのような人物が焼き打ち集団を構成していたのかを検討したい。
暴動の参加者の総体を知ることはまず不可能であり、被告人の一覧や新聞報道によって、その傾向を部分的に推測するよりはかない。そこからわかるのは、これまでの研究が強調しているように、職人・工場労働者(職工)・日雇い雑業層(荷役人夫や車夫など)が多かったことである。
職業 人数
商人 29
小営業者 15
工場労働者 40
運輸労働者 10
職人 70
事務員 10
車夫 13
人夫日雇 27
商店の雇人 22
学生 8
農民 5
漁師 1
その他 4
無職 20
計 274
表3-1 日比谷焼き打ち事件予審被告の階層
宮地正人『日露戦後政治史の研究』227頁の表62より作成
ここではそれらの階層をまとめて 「労働者」と呼ぶことにする。年齢で見ると、公判に付された被告のうち一六〜二五歳が約六五%を占める。予審・公判の被告とも性別は全員男性である。」
〈日露戦時下の男性労働者〉
「これまでの研究では、この時期の東京の男性労働者が極めて不安定な状況にあったことを指摘している。資本主義の発達にともない、職人層が解体していくさなかにあった。従来の徒弟制からなる職人層は、年季奉公によってのれん分けされて、親方になる道が開けていた。しかし日清戦争後の産業の進展によって現れた近代的な工場がこの徒弟制を動揺させた。
日露戦争から第一次世界大戦にかけての時期は、従来の徒弟関係を中心とした職人層が解体し、工場労働者へと移行する過渡期にあった。この過程で、それまで徒弟制に組み込まれていたはずの若年男性は、工場労働者や日雇い雑業層になったが、いずれの場合も、のれん分けによって自ら店を構える可能性が潰えた。
将来のルートが崩れて先行きが不安定となったが、それでも東京は多くの若年男性を引きっけた。工場での雇用は多く、特に農村で家を継げない次男・三男は、都会に出て何者かになることに希望を見出した。この時期の労働者の上京理由は、賃労働に従事するためではなく、さまざまな小営業を営むためであった。労働者となることはそのための手段に過ぎず、何とかしてそこから上昇しょうとしていたのである(宮地『日露戦後政治史の研究』)。
・・・・・自分の店を構えて安定的な生活を送ること。それが多くの男性労働者が抱いていた願望であった。」
〈飲む・打つ・買う〉
「男性労働者の「将来の希望事項」を裏返すように、彼らが小営業者として社会上昇を遂げることは、極めて困難であった。都市の産業労働者の形成は、成功を夢見て上京した青年たちが、心ならずも工場労働者の生活を続けることで始まったと松沢弘陽は指摘している(『日本社会主義の思想』)。
そもそも当時は労働者であること自体、社会的な評価が低かった。明治後期の大都市において、工場労働者の生活水準は日雇い雑業層と同様であったといわれる。「労働社会」「職工社会」と「一般社会」(旧来からの商家など)との間には越えがたい一線があり、工場労働者には蔑視の視線が投げかけられた。
それゆえに、男性労働者の生活は、「酒、女、ばくち、いれずみ」が「職工につきもの」であり、工場で刃傷沙汰を見ない日はないという、刹那的な生活を送っていた。
工場労働者のなかでも特に荒っぽかったとされる製缶工場では、労働者はたいてい刺青をしており、工場に新入りが入ると、先輩職工から刺青を入れるようにいわれたという。工場内での小競り合いは刃傷沙汰になることも多かった。また呉海軍工廠では賭博・飲酒がひどく、刹那的な生活を送っていたという(佐々木啓「産業戦士」の世界」)。
こうした男性労働者の荒々しいふるまいについて、従来の研究は、立身出世に失敗したがゆえの退廃的な現象と見なしてきた。しかし、彼らの生活に潜入して書かれたとぎれるルポルタージュは、男性労働者の生活について異なった描き方をしている。
日雇い労働者や単身の工場労働者の通う一膳飯屋では、「一杯飲めば胃の腑が出火したよぅに、胸元が熱くなろうという代物」が好んで飲まれ、酔いが回ると「見ず知らずの隣りの客に、昔の自慢話をしたり、大喧嘩の時の自分の働き振りと言ったような、怪気焔が始まる。〔中略〕遂には自慢と自慢が衝突をして、喧嘩口論となる」と記されている。その次に書かれた描写に注目したい。"
彼等は酔っていての喧嘩で、喧嘩しなくとも好い喧嘩を酒がさせる替わり、その又酒が直ぐに仲直りもさせる。喧嘩して今にも殺し合いでもするかと疑われた連中が、しばらくすると、
「いや、お前はなかなか度胸がある、俺はその度胸に惚れてしまった、兄弟になろう」
と一方が言えば、又一方もそうで、
「ウム、貴様の男らしいのが俺は気に入った、今夜は大いに飲もう、まだ俺だって二貫や三貫はあるぜ」 (深海豊二『無産階級の生活百態』)
日雇い労働者や工場労働者が頻繁に繰り広げていた殴り合いは、自暴自棄で退廃的な行動ではなく、仲間を形成するプロセスとして描かれているのである。先に挙げた製缶工場でも鉄の切れ端で相手の頭を負傷させたかと思えば、仲間内で公傷であることにして大勢で酒を飲んで仲直りしたという(佐々木「「産業戦士」 の世界」)。
多くのルポルタージュが、男性労働者の助け合いの精神が強かったことを強調している。日雇い労働者の場合、外食した代金を仲間が代わりに払ってやることは日常的にあり、時に法外に奢ることもあったという (松原岩五郎『最暗黒の東京』)。男性労働者の問には、身寄りがないまま都会に出てきても、それなりにやっていけるだけの緩やかな紐帯があった。」
〈「男らしさ」の価値体系〉
「こうしたルポルタージュの記述を数多く読んでいくと、荒っぽいふるまいには、「男らしさ」の価値体系というべき一つの軸があったことが見えてくる。
浮浪労働者の仕事というものは、常に体力を使用するだけに、彼等の仲間の話というものは、寄ると触ると力自慢の話になる。彼等の前には金銭も権勢も認められない。只腕力さえあれば事が足りるのた。従って議論よりも喧嘩が多い。(小川二郎『どん底社会』)
また、「二十四五貫〔約九〇キログラム〕位の荷物を担いで見ろ、皆な驚いて直ぐ小頭(こがしら)にしてくれらァ」という会話を紹介し、記者は 「彼等の仲間で力さえあれば随分出世が出来るのだ」と記している。
たとえば、横浜港の仲仕であった藤木幸太郎は、人夫部屋での丁半博打において 「やるからには大きく張って、大きく稼ぐか、ごっそりとられるかで、うじうじとちいさなやりとりは好かぬ」 という度胸の据わった金の振り方が部屋頭の目を引き、元手をなくした仲間には気前よく金を貸す気風の良さもあいまって、乙種人夫から甲種人夫へと昇格したという (白土秀次『ミナトのおやじ』)。
腕っ節の強さ、豪快さ、剛胆さ、弱きを助ける義侠心。これが男性労働者のあいだで一目置かれる価値であった。特に不熟練労働では、こうした 「男らしい」 ふるまいを身につけている人物は、労働者間をとりまとめる地位へと出世したのである。
「彼等の前には金銭も権勢も認められない」 という表現に端的に表れているように、こうしたふるまいは、社会的な地位や学歴、経済力がない人物でも獲得できることに注目すべきだろう。「労働社会」 には、富や学といった一般的な価値観とは異なる、独自の価値観がつくりあげられていた。」(藤野裕子『民衆暴力 ― 一揆・暴動・虐殺の日本近代』(中公新書))
つづく

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