1905(明治38)年
10月6日
ノーエル将軍率いる英国艦隊、神戸港入港(将校268、下士卒3840)。神戸・京都・大阪で歓迎会。横浜入港後、横浜で歓迎会。将軍の天皇拝謁。
12、13日大歓迎会。新聞は連日報道、「一等国」日本は、同盟国を真心こめて迎えるべし。
講和反対ムードは、戒厳令、条約の枢密院通過で冷め、更に、軍隊凱旋・英国艦隊寄港により、「ロシアに勝ち」「一等国」となった日本を全面に打ち出す世論操作始まる。
10月6日
(漱石)
「十月六日(金)、雨。東京帝国大学文科大学で Tempest を講義する。
『吾輩ハ猫デアル』(上扁)、大倉書店・服部書店から出版され、二十日間で初版売り切る。」(荒正人、前掲書)
漱石『吾輩ハ猫デアル』上篇刊行(大倉書店・服部書店)。連載の第1回~5回分。橋口五葉装幀。挿絵を担当したのは、フランス留学から帰国したばかりの画家・中村不折。初版は20日で完売し、再版を出すことになる。
10月末、堺利彦はエンゲルスの肖像写真のある平民社絵葉書により愛読している旨、漱石に葉書を送る。
新刊の書籍を面白く読んだ時、其著者に一言を呈するのは礼であると思ひます。小生は貴下の新書『猫』を得て、家族の者を相手に三夜続けて朗読会を開きました。三馬の浮世風呂と同じ味を感じました。堺利彦
10月7日
講和問題同志連合会、河野広中座長で委員会総会。解散決定。16日、解散式。新たに「国民倶楽部」結成決定(事務所はそのまま使用)。
26日、国民倶楽部、設立。
10月7日
(露暦9/24)露、モスクワ職字工ストライキ、全国波及。
この頃、トロツキー(26)、再びペテルブルクに潜行。この頃、メンシェヴィキは、労働者500人につき1人の代表を選ぶ革命的機関の選出をスローガンとするが、ボルシェヴィキは、11月にレーニンがロシアに戻るまで、超党派組織選出に反対するセクト主義的態度を続ける。
10月8日
清国、巡警部設置。
10月8日
田村秋子、東京に誕生。新劇女優、「姫岩」作家。
10月8日
東京府市会と新聞記者、警視庁廃止期成同盟組織。
10月8日
シベリア横断鉄道開通(バイカル迂回線)。
10月8日
永井荷風
「十月八日 二年前の今月今夜余は初めて舎路の港に着し夜泊の船上新世界の山影を月明の中に眺めたるなり。二年の後今夜亦月明水の如し 感慨極りなく眠る能はず独り公使館の後庭に出でゝ厩のほとりの石に腰かくるに樹影参差として草の上にあり涼露蕭々雨の如くに衣を潤せり。余はさまざま身の行く末を思ひやりて唯尽せぬ愁に打沈むのみ」(『西遊日誌抄』)
10月9日
平民社解散
この日、解散式、70人参加。キリスト教的社会主義派分離。
①堺は「家庭雑誌」に専念、
②幸徳は渡米、
③西川光二郎・山口孤剣らは凡人社をおこし非キリスト教社会主義機関紙「光」(月2回)発行、
④石川三四郎・木下尚江(主筆)・安部磯雄(監修)はキリスト教社会主義機関紙・月刊「新紀元」発行。
10月9日
荒畑寒村、東京を去る。紀州田辺「牟婁新報」(社長兼主筆毛利紫庵)入社のため。
毛利清雅(紫庵):
1871(明治4)年9月28日和歌山生まれ。1884年得度、翌年、高野山入り、高野山中学・同学林に学び、1893年、在学のまま高野山副住職、1895年住職。
1900(明治33)年4月、田辺町の政友会系有志の後援により「牟婁新報」社創立、主幹・主筆を兼ねる。第1号は4月14日、月3回発行。
1902年、上京、東京法学院入学。杉村楚人冠・境野黄洋らと新仏教清徒同志会設立、評議員となる。木下尚江・堺利彦らと交わり、足尾鉱毒問題等の演説にも参加。
1903(明治36)年帰郷、寺務と「牟婁新報」主筆を兼ねる。「マークス(又は田辺のマークス)」名で「社会主義を鼓吹すべし」「所謂金持を排斥すべし」「基督教の拡張を望む」など論説。熊野請川の成石平四郎・新宮の大石誠之助らが集る。中央からは記者として、小田頼造(1904年3~8月)・豊田孤寒(1904年5月~1905年10月)・荒畑勝三(1905年10月~1906年4月)・菅野すが(1906年2~5月)を迎える。
10月9日
東京府会、警視庁廃止問題で意見交換。東京市会・東京弁護士会・新聞記者団体と連携し警視庁廃止を全会一致決定。
10月9日
(漱石)
「十月九日(月)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで「十八世紀英文学」を講義する。」(荒正人、前掲書)
10月10日
朝、講和問題同志連合会の河野・大竹・小川・細野ら家宅捜査。手紙、会計簿、手帳など押収。
10月10日
『吾輩は猫である』(第六回)〔『ホトゝギス』10月号(9巻1号)〕
■主人が自作の「大和魂」を迷亭、寒月、東風らの前で朗読
「大和魂! と叫んで日本人が肺病やみの様な咳をした」(略)
「大和魂! と新聞屋が云ふ。大和魂! と掏摸(すり)が云ふ。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。独逸で大和魂の芝居をする」(略)
「東郷大将が大和魂を有(も)って居る。肴屋(さかなや)の銀さんも大和魂を有って居る。詐偽師、山師、人殺しも大和魂を有って居る」(略)
「大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答へて行き過ぎた。五六間行ってからエへンと云ふ声が聞こえた」(略)
「三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示す如く魂である。魂であるから常にふらふらして居る」(略)
「誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。(略)大和魂はそれ天狗の類か」
自分でも訳の分らないものを大和魂(大和民族の優秀性)として誇っているが、現実の日本人は「肺病やみ」のように疲れ切っている。大和魂は、「天狗の類」(架空の怪物)ではないのか。
■「送籍」について
先達ても私の友人で送籍と云ふ男が一夜といふ短篇をかきましたが、誰が読んでも朦朧として取り留めがつかないので、当人に逢って篤(とく)と主意のある所を糾して見たのですが当人もそんな事は知らないよと云って取り合はないのです。全く其辺が詩人の特色かと思ひます」「詩人かも知れないが随分妙な男ですね」と主人が云ふと、迷亭が「馬鹿だよ」と単簡に送籍君を打ち留めた。
「送籍」は「漱石」、「一夜」は漱石の短編「一夜」(『中央公論』8月号)のこと。
漱石は北海道へ送籍して徴兵検査を免れたことがあった。
丸谷才一は、「明治二十五年度の自分の行為、送籍をこれほど深く気に病んでゐた」という。
しかし、漱石は自分の徴兵忌避を韜晦(とうかい)的に告白し、自由に生きようとして送籍した行為を誇るとともに、一方で徴兵忌避くらいで国家権力に逆らう勇気ある行動をしたと誇る自分を、迷亭に「馬鹿だよ」と言わせておとしめた、と考えられる。
つづく

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