1905(明治38)年 〈1905年ロシア第一革命②〉
10月14日
この日、のちにソヴィエトのリーダーとなるトロッキーが、フィンランドからペテルブルクに帰還。
「私が暮らしていたフィンランドの環境は、およそ永続革命を思い出させるようなものではなかった。丘陵、松林、湖水、秋の澄みきった空気、そして静寂。9月末、私はフィンランドのさらに奥へと引っ込み、森の湖畔にぽつんと建っている『ラウハ』というペンションに落ち着いた。この名前はフィンランド語で『静寂』という意味である。
秋を向かえた広大なペンションは、完全に静まり返っていた。スウェーデンの作家がイギリスの女優といっしょにこの数日間をペンションで過ごしていたが、勘定を払わずに旅だった。宿の主人は彼らを追ってヘルシングフォルス[ヘルシンキ]に急行した。女主人は重い病でふせっていて、シャンパンの助けを借りてどうにか心臓を動かしていた。もっとも、私は一度も彼女の姿を見たことはなかったが。主人の留守中に彼女は死んだ。彼女の遺体は私の上の部屋に安置された。給仕長は主人を探しにヘルシングフォルスに向かった。客へのサービス係としてボーイが1人残されただけになった。
大量の初雪が降った。松林は一面の雪に覆われた。ペンションは死んだように静まりかえっていた。ボーイは地下にある台所へと姿を消した。私の上には死んだ女主人が眠っていた。私は1人きりだった。それはまさしく『ラウハ』、静寂そのものだった。人の姿はなく、物音ひとつ聞こえなかった。私はひたすら書き、散歩した。
ある日の晩、郵便配達人が一束のペテルブルクの新聞を持ってきた。私は片っぱしから開いて読んだ。それはまさに、開け放たれた窓から暴風雨が飛び込んできたようなものだった。ストライキが発生し、またたくまに広がり、都市から都市へと波及しつつあった。ホテルの静寂の中で、新聞のガサガサいう音が雪崩の轟音のように私の耳に響いた。革命は全速力で進行しつつあった。
私は急いでボーイに勘定を払い、馬車を呼びつけ、『静寂』を置き去りにしたまま、雪崩に向かって馬を走らせた。そしてその夜、すでに私は、ペテルブルクにある総合技術高専の講堂の演壇に立っていた。」(『わが生涯』第13章「ロシアへの帰還」より)
「私がペテルブルクに到着したとき、10月ストライキは最盛期にあった。ストライキの波はますます拡大しつつあったが、大衆的な組織によって指導されない運動は成果なく水泡に帰すおそれがあった。私はフィンランドから帰ってきたとき、1000人の労働者につき1人の代表を選ぶ超党派の組織を選出する構想をたずさえていた。しかし、ペテルブルクに着いたその日に、作家のヨルダンスキー――彼は後にイタリア駐在のソヴィエト公使となった――から、すでにメンシェヴィキが、500人につき1人の代表を選ぶ革命的機関の選出をスローガンとして掲げていることを知らされた。それは正しかった。ペテルブルクにいたボリシェヴィキ中央委員会メンバーは、それが党と競合することになるのを恐れて超党派の組織の選出に断固として反対した。ボリシェヴィキ労働者の方はこうした懸念とはまったく無縁であった。ソヴィエトに対するボリシェヴィキ指導者のセクト主義的態度は、レーニンが11月にロシアに帰ってくるまで続いた。」(『わが生涯』第14章「1905年」より)
「それは10月14日のことであった。一方ではストライキが、他方では政府の内部分裂が進行し、着々と危機の瞬間に向いつつあった。この日、『空砲を繋つな、実弾を惜しむな』という、トレポフの有名な命令が出た。ところが翌15日には、そのトレポフが突如、『人民の中には集会の要求が熟している』ことを認め、大学・高専の構内での集会を禁じつつも、市内3箇所の建物を集会のために当てがうことを約束した。われわれは『ソヴィエト通報』にこう書いた。『24時間でなんという違いだ。われわれは、昨日は実弾に値いする程度にしか成熟していなかったのに、今日はもう人民集会の程度にまで成熟した。血に汚れたこの無頼漢は見誤っていない。この緯大なる闘争の日々に、人民は時間刻みで成熟しつつあるのだ!』
14日夜、禁止されたにもかかわらず、各大学・高専は民衆であふれていた。いたるところで集会が闘かれた。……工業専門学校の講堂では、労働者民兵を武装させる要求を市会につきつける必要があるという問題で討論が行なわれていた。われわれはそこを出て物理学教室へ移った。ここでわれわれは前夜に結成されたソヴィエトをはじめて見た。半円形に配置された長椅子に100人ほどの労働者代議員と革命的諸党派のメンバーが坐っていた。講義机の向うには議長と書記が席を占めていた。この集会は、議会というよりむしろ軍事会議に似ていた。長広舌という議会制度の弊害がここには微塵もなかった。議題――ストの拡大と市会への要求提出――は純粋に実践的な問題であり、実務的に、簡潔かつ熱心に討論された。一分一秒まで計算されているような感じだった。ほんのちょっとしたレトリックにでも陥ろうものなら、議長の断固たる抗議に会い、議場全体がこれに容赦ない共感を示した。」(トロツキー『1905年』「ソヴィエトの成立」より)
10月15日
第3回ソヴィエト会議
226人の代表が出席。繊維、ガラス、ビール、菓子工場などは、まだストに加わっていない。ソヴィエトはストを拡大・強化するのに全力をあげ、第一に、集会やビラでストに加わるよう労働者に訴える、第二に、仕事を止めるようスト不参加者のところへ代表を派遣する、第三に、ストしていない企業主のところへしヴィ干支代表を派遣し、工場破壊の可能性をほのめかして即刻工場閉鎖を要求する、などを決定。現実には、スト労働者が出かけてゆくだけで仕事をやめさせるには充分な場合が多かった。
10月16日
工場ばかりではなく、商店にもストを拡大しようとして、食糧を取り扱う店を除く全ての商店を閉鎖する決議を採択。
しかしこの決議を遂行するのは困難だった。店員組合はまだかならずしも革命的ではなく、店員は孤立的・分散的で、組織率も低かった。ストに加わろうとする店員には、スト反対の店員と店主の両面から圧力がかかってきた。14日には店を閉鎖する店主は24時間以内に追放すると言うトレーポフの布告が出ていた。
しかし、この日、都市部では商業は中止されなかったが、周辺の労働者街では、商店は閉鎖された。
労働者ばかりか、学生、教師、俳優、官吏などインテリ層をもまきこむ大ストライキは依然として続けられていた。しかし、軍隊警察の強圧により集会の場としての大学は包囲されていた。
10月17日
ソヴィエト集会もわずかに100人はどしか集まれず、ストの成果は何もないようにみえた。
この日のソヴィエト会議では、スト継続そのものが議論され、結局、継続に決したが、その決議にはプロレタリアートの動揺があらわれていた。
この日、ボリシェヴィキ中央委員会もストは失敗に終わったと判断し、翌日にでも大量逮捕が姶まるであろうから、党活動家は地下にもぐることを決定した。ソヴィエト、革命政党はストの前途に自信を失っていた。
「同志諸君、このストライキの日々、ペテルブルクでは忘れられない光景が見られた。この都市には200万の住民、巨大な工場群があり、そこでは数十万人の労働者が働いていた。しかし、この時期、工場は完全に静かになり、歯車一つ動かず、すべての生活がストップし、劇場はわれわれの要求に基づいて第一幕の途中で公演を中止し、街頭は暗闇の中に沈み、電気は通らず、ツァーリの高級官僚たちの居住地でも暗闇が支配した。この日々に、われわれはみな、プロレタリアートがどれほどのものか、彼らの力がどれほどのものかを目にし、感じ取ったのである。同志諸君、われわれは理解した。全社会生活がもっぱら彼らにかかっていることを。彼らのおかげで権力者たちは、その権力を享受できるのである。彼らのおかげで富裕者は豊かになれ、学者は科学を研究することができ、所有者はこうこうと明かりのついた邸宅を享受できるのである。これらすべては労働者階級のおかげであり、全世界は彼らの手中にあるのだ(拍手)。私は思うのだが、当時、もしわれわれ社会主義者が視力を失い、耳を蝋で塞がれていたとしても、その手でもってペテルブルクの街頭で社会主義を感じ取ることができただろう。」(トロツキー「ロシア革命(ソフィア演説)」より)
一方、政府側も10月ストが大規模なものになってくると、これの対策に苦心していた。
14日には、秩序維持のためには、「空砲を発してはならない、弾丸を惜しんではならない」とするトレーポフの有名な告示がいたる所にはり出され、
15日には大学の集会も軍隊により禁止された。
しかし市民はストに同情を示し、スト労働者の自信を強めていた。かかる情勢は政府内部にも動揺をひき起こし、軍指導者が、軍隊の掌握に確信がもてなくなり、武力弾弾圧の責任者、トレーポフも17日には、まったく自信を失っていた。
「勅令の発行がなされる前の、ストライキ闘争がたけなわの頃、ペテルブルク・プロレタリアートは自己の隊列を打ち固め、自分自身の強固な組織を創設することに全力を傾けていた。こうして真に歴史的な奇跡、労働者階級の無尽蔵の力を物語るこの巨大な奇跡が起こった。ペテルブルクにおいてわずか4~5日間のうちに、まるで地から湧いてきたかのように、20万人ものペテルブルク労働者を包含した生き生きとして柔軟で権威のある組織が生まれ、その名をロシア革命の歴史に刻み込んだのだ。私はペテルブルクの「労働者代表ソヴィエト」のことを言っている。各工場ないし地域の500人の労働者につき1人の代表が選ばれた。この選挙された代表者はソヴィエトを形成し、この組織がペテルブルクの主人となった。トレポフは狼狽し、ヴィッテは人民の前に姿を現わすことができなくなった。国家機構はボイコットを宣言された。ソヴィエトは事実上その手中に国家権力を収めた。」(トロツキー「ロシア革命(ソフィア演説)」より)
10月17日
ここに至って、ツァーリはやむなく譲歩することに決し、10月17日午後6時、ヴィっての起草になる良心・言論・集会・結社の自由、人身の不可侵、国会選挙権の拡大などを約した、いわゆる10月宣言に署名したのである。
つづく

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