1905(明治38)年
10月1日
『社会主義評論』(「読売新聞」連載)。~12月10日まで。翌年1月、単行本として刊行(同年9月に改訂第5版発行)。
著者は「千山万水楼主人」と署名、河上肇。
東京で学生生活を始めた頃から、木下尚江、内村鑑三、島田三郎、田口卯吉、田中正造、安部磯雄、西川光次郎、河上清、幸徳伝次郎等の講演を聞き、中でも木下尚江と内村鑑三に心を惹かれた。彼は何度か木下尚江を訪問し、敬愛の念を深めたが、内村鑑三は寄りつきにくい気がして訪問しなかった。彼は内村の「聖書之研究」を購読し、「バイブル」を読むようになった。
「バイブル」の中でも特に「マタイ伝」の一節に惹かれた。
「人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ。なんぢを訟へて下衣を取らんとする者には、上衣をも取らせよ。人もし汝に一里ゆくことを強ひなば、共に二里ゆけ。なんぢに請ふ者にあたへ、借らんとする者を拒むな。」
彼は、こういう絶対的な非利己的態度が、人間の理想でなければならないと感じた。一方で、彼は、そんな態度ではとても此の世に生きて行くことができない、すぐにも身を滅すであろう、という声も湧いていた。これが彼の糖神的煩悶のはじまりであった。
彼は、明治34年暮、渡良瀬川の農民救済運動をしていた潮田千勢子たちの講演を聞いて、身につけている以外の衣類を全部行李に詰めて送り届けた。
彼が寄附した着物の中には、母が蚕を飼い、糸を紡いで織ってくれた羽織などもあり、そのことを手紙で母に伝えると、母は大変怒った返事をよこした。彼は、「バイブル」通りに身を処して行くならば、父母の心を安んじることもできないと気づき、しばらくは、世間人並みの生活をしなければならないと考えた。
翌明治35年、東京帝大政治学科を卒業(24歳、専攻は経済学)。
この年、大塚秀子と結婚し、1年後には長男政男が生れた。
明治36年から東大の農科大学実科の経済学の講師となり、その後更に専修学校、台湾協会専門学校、学習院等の講師をも兼ねて、学者として順調な道をたどりはじめた。
だが生活が安定した彼のところに、伯父の息子が預けられ、更に、二人の伯父の娘が預けられた。従弟や従妹の友達が集まって賑やかに騒ぐので、彼は夜更けてから勉強をはじめ、朝になって寝床に入る、という生活をしていた。彼は、そういう家庭の空気が自分の研究生活を乱すように感じ、翌年、家庭をしばらく解散して研究生活に没頭することにした。妻と子を郷里の父母のもとに預け、自分は食事つきの室を借りて移り住んだ。"
「読売新聞」主筆足立北鴎は同郷の山口県人で、その縁で明治38年、千山万水楼主人という筆名で、「社会主義評論」を「読売」に連載した。それは伝統的な経済学の立場から当時の社会主義者たちの思想や人となりを論じたものであった。この評論は大変好評で、そのために「読売新聞」の部数が増えたとも言たれた。
だが連載しているうちに、彼は糖神的不安に襲われはじめた。マタイ伝の一節が、また至上命令となって彼の心に去来するようになった。自分が学んだ経済学研究は、結局、学位を得て出世するという一身の名利を追う方向へ自分を進ませるに過ぎず、「バイブル」の示している絶対的な非利己主義の理想と正に相反するものではないか、と思われて来た。彼は経済学の研究を放棄したくなり、街を歩きまわって自分の心を満たすものを求めはじめた。
その頃、九段坂下に、近角常観(ちかずみじようがん)の経営する求道学舎があり、彼はそこで近角常観の話を聞いた。近角常観は、日露戦争前後の社会主義の勃興と、その弾圧との続いた時代に、精神界の指導者として知識階級に強い影響を与えた浄土真宗系の人物の一人であった。
この時代、さまざまな系統の精神界の指導者がいた。キリスト教系の代表的人物として内村鑑三、近角常観の先輩の清沢満之(まんし)、伊藤証信、坪内逍遥の古い弟子である綱島栄一郎(梁川)らがいた。
綱島梁川は明治28年「道徳的理想論」書いて東京専門学校を卒業したが、卒業後肺を患ってから、キリスト教に入った。彼は小説、文芸評論を書いていたが、明治35年1月、「悲哀の高調」を発表して、宗教感情を描いた美文の作家として名が売れた。その後、主に宗教論を書くようになり、病床にあって思索生活をしていたが、明治37年7月~11月に三度神の存在に接触した体験を持ち、翌明治38年5月「予が見神の実験」を発表して大きな反響を呼んだ。またこの年7月、「梁川文集」を出し、10月には「病間録」を出版した。大町桂月ですら、「とも(この2書)に近時の大著述なり。梁川文集は学者、識者、論客としての梁川を知るべく、病間録は一種の予言のおもかげを見る」と評した。
社会主義運動のような実践性のあるものの禁圧と、戦争による死の体験やその見聞が、青年たちを、これ等精神主義者の著作や実践に引きつけていた。
近角常観は、本願寺系の僧侶の出であったが、東大を卒業した文学士であり、彼の思想を受け入れた学生たちをその求道学舎に寄宿させて指導していた。はじめ本郷の森川町にその求道学舎があったが、後それを九段下に移した。
河上肇は、近角の思想に満足せず、救世軍の集会に出かけて行って山室軍平の説教を聞いた。また、内村鑑三、植村正久と並ぶキリスト教界の指導者であった海老名弾正の説教を本郷教会へ聞きに行った。海老名弾正は異様に禿げ上った狭い額、細長い皺に包まれた顔、長く伸ばされた顎髭、底力のある錆びた声の長身痩躯の立派な人物であった。彼は黒の紋付に仙台平の袴をつけていた。その立派な服装が河上肇の目には邪魔になった。「なんぢに請ふ者にあたへ、借らんとする者を拒むな」という「バイブル」の言葉の通りに生きたら、こんな立派を服装をしていられる筈がない、と彼は考えた。
10月1日
小村寿太郎、バンクーバー着。翌2日、発。
10月2日
講和問題同志連合会、会合。5日に日比谷公園で国民大会開催決定。前日4日、条約が枢密院通過し、大会中止。
10月2日
円地文子、誕生。
10月2日
(漱石)
「十月二日(月)、菓京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで「十八世紀英文学」を講義する。」(荒正人、前掲書)
10月2日
(露暦9/19)モスクワ、スイーチン印刷植字工、労働時間短縮・賃上げスト、拡大(句読点の植字にも普通の文字と同額の手間賃を支払うよう要求)。
10月3日
平林たい子、誕生。
10月3日
クロアチアで民族自決を要求するフィウメ決議採択
ハンガリー、非マジャール人「クロアチア・セルブ人連合」。クロアチアとダルマチアの民族的権利承認と引換えにハンガリーの「連合」と独立支持の用意ありと宣言
10月4日
枢密院会議、日露講和条約批准可決。
10月4日
「大阪朝日」発行停止解除の4日の社説は桂内閣総辞職要求、
短評欄は「此の心、此の志、奪ふべきかな」と書く。
西村天囚・鳥居素川などの論説記者は、「一剣倚天寒」と大書した旗を先頭に、馬に乗って講和条約反対の大阪市内デモを敢行。
10月4日
(漱石)
「十月四日(水)、夜、寺田寅彦来る。」(荒正人、前掲書)
10月5日
駐韓林公使、朴斉純外相に「新(第2回)日英同盟」を通知。
17日、朴斉純外相、新日英同盟の条約違反を駐韓日(萩原守一臨時代理)・英(ジョーダン)公使に抗議。イギリスへは両国友好を定めた1883年「韓英修好通商条約違反、日本へは前年の「日韓協約」違反。
10月5日
外務省政務局長山座円次郎、条約「正本」を持って小村より先に横浜着。
10月5日
二葉亭四迷(無署名)「ひとりごと」(「東京朝日」3回連載)。
桂の独白の形をとった諷刺を利かせた政治評論。読者の注目を引く。
池辺三山、桂の奸計に気付く:
①主戦論で国民を煽り挙国一致体制を作るのに貢献)。
②対外硬の意見に乗り、再度国民を煽り、日比谷焼打ち事件を招く。
③政府派は戒厳令・新聞紙条例で反対派封殺。
④条約可決。
⑤凱旋、イギリス艦隊の訪問により、「一等国」意識の植付け。
「東京朝日」は、講和問題ではなく戦後処理の問題を取り上げるよう論調を変える。
10月5日
東京弁護士会は臨時大会を開き、「警察官鎮圧手段の狂暴」を非難し(「日本弁護士協会録事」1905年9月)、被害調査・聞き書きを行い、「流血遺滴」として「法律新聞」に連載(この日~19回)。
10月5日
岡倉天心(42)、横浜港からミネソタ号で出航、ボストン美術館アドバイザーを委嘱され、アメリカに向かう。39年4月6日帰国。
つづく

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